桜さくら堂

いらっしゃいませ! 今日もあなたのために、とっておきのお話をご用意しました。

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ③

「あの青空のところに、何かとても大切な物を忘れてきてしまったって言ってるの、この詩の作者は。それは何かしら?」

 クラス担任でもある現代国語の桐生先生が言った。桐生先生は大学を出たばかりの女の先生で、『ペガサス』とかいう全国的な詩のサークルに入っているらしかった。踵が10センチもあるハイヒールをはいて、いつも校内をカツカツと歩いているから、みんなはミス・ヒール、もしくはヒール先生と呼んでいた。

「宿題だったわよね?」

 ヒール先生は、教室を見まわした。女子はみんな自信満々っていう顔をしていたが、男子はほとんどがうつむいていた。

「ええっと……」

 謙太郎も、ボールペンのペン先なんかを見つめていた。ところが、

「あ~~っ」

 教壇から、ただならない先生の悲鳴がした。

 思わず顔を上げると、先生とバッチリ目が合った。先生はちょっとつまずいただけだった。

--やば。

 すぐに下を向いたが、すでに遅かった。

「北見くん」

 頭の上から、先生の声がふってきた。

「はいっ」

 立ち上がって、きおつけの姿勢をとった。それは敬意を払ってしたのではなく、しまったという気持ちからだった。

「あのう……」

「あら、北見くん、どうかしたの? もしかして、宿題忘れ?」

「いいえっ」

 胸をはって答えた。

「いいえ、違います。忘れてなんかいません。それにふつう、空になんか忘れ物をしないと思います。だから、どっちもなしです」

 どっと教室がわいた。

「えばらないの、着席して」

 やれやれという感じで、先生が言った。

「詩だからって、何も難しく考えることなんてないのよ。詩は、心で読むものなの。そうね、この詩は、みんながもっと歳をとってからわかるものかもしれないわね」

 先生はしたり顔で言いながら、みんなの間をカツカツとヒールの音を響かせて歩いた。

 その音が、ピタッと止まった。先生は広尾のところで立ち止まって、机に広げてある大学ノートをじっと見た。広尾がノートを閉じようとすると、

「待って」

 手で制して、広尾に立つように命じた。のろのろと広尾が立ち上がった。

「それを読んでみて」

 みんなはしん……となった。きっとイタズラ書きか、先生の悪口でも書いていたんだろう。あちこちから笑声がもれた。謙太郎の時とは、明らかに違う種類の笑いだった。

 広尾は六月末という半端な時期に、北海道から越してきた。まだ友達と呼べるようなやつも出来ていないようだった。広尾がぼそぼそと、小さな声で読み始めた。

「もっとゆっくり、大きな声で」

 広尾の言葉がとぎれ、みんなも静かになった。ひょうきん者の吉沢がにやにやしながら、次に広尾がひと言でも言葉を発したらすぐに笑ってやろうと待ちかまえていた。今度はさっきよりも、ゆっくりと大きな声になった。

 それは詩だった。笑うきっかけをなくした吉沢が、ぽかんと口を開けたままになっている。

「とてもいい詩ね」

 先生が言った。

「どうせ、自分で作ったんじゃないだろ」

 吉沢が口を出した。

 次の瞬間、広尾がダ――ッと吉沢の席まですっ飛んで行って殴りかかった。吉沢はすんでのところで避けて、かすっただけだった。先生やみんなにはわからなかったかもしれないが、謙太郎の所からはそれがはっきりと見えた。吉沢はほっとした顔をした後、すぐに頭を抱え込んでうめき声をあげた。

「うわ~~~、イテェよお~~っ」

 すぐに二人は、引き離された。

「広尾くん、後ろに立っていなさい」

 先生が命令した。吉沢が、にやっとした。

「ウソ、ついてます。当たっていません」

 謙太郎が言った。

 「いいえ、北見くん。それからみんなも聞いてちょうだい。どんな理由があっても、暴力で解決しようとしてはいけないのよ。わたしの教室で、暴力は絶対許さないわ」

 毅然とした態度で、先生が言った。広尾はものすごい形相で、先生をにらんだ。身体が小刻みに震えて足が揺れていた。が、広尾はくるっと先生に背を向けると、教室を出てそのままどこかへいなくなってしまった。

「冗談だよ、ジョーダン」

 吉沢が情けない顔で、ごまかすように言った。誰も笑わなかった。

 放課後になっても、広尾は戻らなかった。机の横にポツンと置き去りにされたカバンが、なんだか侘しかった。

「ゲルニね」

 ヒール先生がやってきて言った。先生が出た大学では、出席だけとっていなくなってしまう生徒をそう呼ぶのだそうだ。

「北見くん、ヒマ?」

 いきなり先生が言った。

「いいえ、ヒマじゃないですよ。これから全力疾走しなくちゃなんないし……」

「あら、陸上に入ったの?」

「部活はやってませんよ」

「じゃあ、予備校?」

「まさか」

「じゃあ、ヒマでしょ。悪いんだけど、それ、持っていってくれないかな? 先生、ちょっと用事があるのよ」

 先生は謙太郎を、勝手にヒマと決めつけて言った。

「それに、あんまり大ごとにしたくないの。まずは、友達が行くのがいいでしょ」

「えっ、おれって、広尾の友達ってことになってんの?」

「そうやってカバン見つめてるんだから、じゅうぶん友達よ」

 これ以上言うと、今度は先生と『友情』について、長~~い話になりそうだった。それよりカバンを届けてしまったほうが楽だ。

「それで、広尾の家ってどこですか?」

「本町のドブ板通りよ」

 横須賀のドブ板通りっていえば、Xジャパンのヒデがいたことで有名な所だ。米軍基地に近く、GI(米軍兵士)相手のバーやキャバレーが軒を連ねている所でもある。

「ビギン&ビギンっていうジャズのお店らしいわ」

ーージャズの店!

 嫌な予感がした。それに音楽にかかわる所には、近づきたくなかった。しかしそれよりも、ドブ板通りをビビっていると思われるのは、男として最も避けたいことだった。

「先生、それってお願いですか? それとも命令ですか?」

 先生は軽く首をかしげてから、言った。

「ミッションよ」