「驚かすなよ」
取っ手を持ったまま言った。
「気にしなくていいよ。どうせそこ、もとから壊れてんだ」
「ちえっ」
「中にチェスのコマが入ってるんだ。テーブルの上で出来るようにね。……で、何しに来たの?」
「あ、そうだった」
謙太郎は、カバンを出して言った。
「これでミッション完了だ」
「ミッション?」
変な顔をして、広尾が受け取った。手の甲に血がにじんでいる。
「その手……」
「なんでもないよ」
広尾がぶすっと言った。
マスターはさっきの曲を終えて、別のを弾き始めた。これも軽快な曲だ。
「クレオパトラの虹だよ」
広尾が言った。すぐにクレオパトラの夢だったかも、と言い直した。
「いいだろ?」
「……」
――そんなような気もする。なぜか胸が痛まないし。
また新しい曲に変わった。今度のはスローテンポで、じっくりと聴かせる曲だ。
「いいよな、ナイ・タンディ~~」
広尾がピアノに合わせて口ずさんだ。謙太郎にはそれが、「泣いたんで~~」というように聞こえた。
泣いたんで~~
泣いたんで~~
「オフクロ、これ、好きなんだ」
ぷつりと歌うのをやめて、広尾が言った。
「え」
「オタルにいるんだ。妹もね」
話がいきなり飛んだので、謙太郎は面食らった。それが北海道の小樽だと理解するのに、ちょっとかかった。
「おれ……」
ボクサーみたいに、広尾が自分の握りこぶしを謙太郎の前に突き出して言った。
「わかるだろ?」
――はあ?
謙太郎は首をかしげた。
すると広尾が、じれったそうに言った。
「暴れるからだよ」
謙太郎はうなずいた。
「ああ」
――それならわかる。
「おまえって、すぐカッとなっちゃうタイプだよな」
「いつも家の中がめちゃくちゃでさ、オフクロが青ざめた顔してて、妹が泣いてて……。それが、おれのせいなんだ」
広尾の声が沈んだ。
「ずぶぬれで帰ったら、オフクロと妹がケーキなんか焼いてんだ。すごく楽しそうにさ。……おれ、それをぶん投げちゃったんだ。妹がぎゃんぎゃん泣いて……、それ、お兄ちゃんのバースディ・ケーキなんだよって。……おれ、何であんな事しちゃったんだろ?」
それっきり広尾は、黙りこくっている。そろそろ帰ろうと思った。
ポロンと、また曲調が変わった。
マスターが次の曲のイントロを始めていた。
「イエスタディズだね」
広尾が言った。門前小僧がお経を知っているみたいに、広尾はジャズナンバーを良く知っていた。
いつの間にかピアノの周りに、他のメンバーが集まってきていた。店内にも客が増え始めている。
同じ曲でもドラムとベースが加わると、曲に厚みと迫力が出てきた。
「あっ」
そのメンバーを見て、謙太郎は目をこすった。
「タバコの煙が目にしみる?」
広尾が言った。
「いや」
謙太郎の目は、ベースの男に釘付けになっていた。
「知ってる人?」
謙太郎はうなずいた。知ってるもなにも、あれは……。
――父さんだ。
曲の半ばになると、ピアノが主旋律からさがって、ベースがテーマを弾き始めた。
哲男は目を閉じて、頭を軽く動かしながらリズムを取っていた。曲の中にすっぽりと気持ちが入っている。
ベースからドラムに渡った時に、短い拍手が起こった。ベースに向けられた拍手だった。哲男の顔が、今まで見たこともないくらいに生き生きと輝いている。呆然と見つめている謙太郎に、広尾がドラマーを指さして言った。
「あれ、オヤジ」
ドラムを叩いている男は、短いヒゲを生やしているだけの普通の中年の男だ。ヒゲもどちらかというと、無精ヒゲに近い。
シャッ、シャ、トゥルル――ッ
しかし、スティックさばきの凄さは、素人の謙太郎にもわかった。シンバル中心の落ち着いたリズムだが、キレが抜群で複雑なリズムを難なくこなしていた。広尾達良と言って、ドラマーの間ではわりと有名なんだぜ、と広尾が胸をはった。
哲男がベースを弾きながら、客席に顔を向けた。そして、謙太郎がいる方角で、その手が一瞬だけ止まった、が、何事もなかったように、また演奏を続けた。
イエスタディズが終わると、哲男はベースをピアノの横に置いて、まっすぐ謙太郎の所へ来た。
「帰るぞ」
有無を言わせない言い方だった。
二人は店を出て、ドブ板通りを歩いていった。夜というにはまだ早い時間だったが、通りはすでにチラチラと夜の顔を見せ始めていた。
「……」
二人は無言のまま歩いた。気まずい空気が、二人の間に流れていた。
謙太郎には後ろめたさと、哲男が自分の知らない世界を持っていたことを責める気持ちとが、交錯していた。しかも、それがジャズとは――。
先に口を切ったのは、哲男だった。
「すまん。隠すつもりはなかったんだが……」
謙太郎は首を横にふった。
ずっと避けてきた世界だった。しかし、今は……よくわからなくなっていた。ただ胸の奥に、不思議な温かい何かが灯ったような気がした。
「昔、ビッグ・アップルにいたんだ」
「ビッグ・アップル?」
「ニューヨークだ。ハーレムってとこさ……」
一緒に歩いているはずの哲男が、急にいなくなったように感じて、謙太郎は横を向いた。
哲男は海を見ていた。しかし、哲男が見ている海は、この横須賀の海ではないような気がして、思わず大声になった。
「父さん」
「ん?」
「また、行ってもいい?」
不安をごまかすように言った。
「……」
哲男は何も言わなかった。いいとも、だめだとも。その黙りこくっている哲男の横顔には、深い影が浮かんでいた。