桜さくら堂

いらっしゃいませ! 今日もあなたのために、とっておきのお話をご用意しました。

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑤

「驚かすなよ」

 取っ手を持ったまま言った。

「気にしなくていいよ。どうせそこ、もとから壊れてんだ」

「ちえっ」

「中にチェスのコマが入ってるんだ。テーブルの上で出来るようにね。……で、何しに来たの?」

「あ、そうだった」

 謙太郎は、カバンを出して言った。

「これでミッション完了だ」

「ミッション?」

 変な顔をして、広尾が受け取った。手の甲に血がにじんでいる。

「その手……」

「なんでもないよ」

 広尾がぶすっと言った。

 マスターはさっきの曲を終えて、別のを弾き始めた。これも軽快な曲だ。

「クレオパトラの虹だよ」

 広尾が言った。すぐにクレオパトラの夢だったかも、と言い直した。

「いいだろ?」

「……」

――そんなような気もする。なぜか胸が痛まないし。

 また新しい曲に変わった。今度のはスローテンポで、じっくりと聴かせる曲だ。

「いいよな、ナイ・タンディ~~」

 広尾がピアノに合わせて口ずさんだ。謙太郎にはそれが、「泣いたんで~~」というように聞こえた。

 泣いたんで~~

 泣いたんで~~

「オフクロ、これ、好きなんだ」

 ぷつりと歌うのをやめて、広尾が言った。

「え」

「オタルにいるんだ。妹もね」

 話がいきなり飛んだので、謙太郎は面食らった。それが北海道の小樽だと理解するのに、ちょっとかかった。

「おれ……」

 ボクサーみたいに、広尾が自分の握りこぶしを謙太郎の前に突き出して言った。

「わかるだろ?」

――はあ?

 謙太郎は首をかしげた。

 すると広尾が、じれったそうに言った。

「暴れるからだよ」

 謙太郎はうなずいた。

「ああ」

――それならわかる。

「おまえって、すぐカッとなっちゃうタイプだよな」

「いつも家の中がめちゃくちゃでさ、オフクロが青ざめた顔してて、妹が泣いてて……。それが、おれのせいなんだ」

 広尾の声が沈んだ。

 「ずぶぬれで帰ったら、オフクロと妹がケーキなんか焼いてんだ。すごく楽しそうにさ。……おれ、それをぶん投げちゃったんだ。妹がぎゃんぎゃん泣いて……、それ、お兄ちゃんのバースディ・ケーキなんだよって。……おれ、何であんな事しちゃったんだろ?」

 それっきり広尾は、黙りこくっている。そろそろ帰ろうと思った。

 ポロンと、また曲調が変わった。

 マスターが次の曲のイントロを始めていた。

「イエスタディズだね」

 広尾が言った。門前小僧がお経を知っているみたいに、広尾はジャズナンバーを良く知っていた。

 いつの間にかピアノの周りに、他のメンバーが集まってきていた。店内にも客が増え始めている。

 同じ曲でもドラムとベースが加わると、曲に厚みと迫力が出てきた。

「あっ」

 そのメンバーを見て、謙太郎は目をこすった。

「タバコの煙が目にしみる?」

 広尾が言った。

「いや」

 謙太郎の目は、ベースの男に釘付けになっていた。

「知ってる人?」

 謙太郎はうなずいた。知ってるもなにも、あれは……。

――父さんだ。

 曲の半ばになると、ピアノが主旋律からさがって、ベースがテーマを弾き始めた。

 哲男は目を閉じて、頭を軽く動かしながらリズムを取っていた。曲の中にすっぽりと気持ちが入っている。

 ベースからドラムに渡った時に、短い拍手が起こった。ベースに向けられた拍手だった。哲男の顔が、今まで見たこともないくらいに生き生きと輝いている。呆然と見つめている謙太郎に、広尾がドラマーを指さして言った。

「あれ、オヤジ」

 ドラムを叩いている男は、短いヒゲを生やしているだけの普通の中年の男だ。ヒゲもどちらかというと、無精ヒゲに近い。

 シャッ、シャ、トゥルル――ッ

 しかし、スティックさばきの凄さは、素人の謙太郎にもわかった。シンバル中心の落ち着いたリズムだが、キレが抜群で複雑なリズムを難なくこなしていた。広尾達良と言って、ドラマーの間ではわりと有名なんだぜ、と広尾が胸をはった。

 哲男がベースを弾きながら、客席に顔を向けた。そして、謙太郎がいる方角で、その手が一瞬だけ止まった、が、何事もなかったように、また演奏を続けた。

 イエスタディズが終わると、哲男はベースをピアノの横に置いて、まっすぐ謙太郎の所へ来た。

「帰るぞ」

 有無を言わせない言い方だった。

 二人は店を出て、ドブ板通りを歩いていった。夜というにはまだ早い時間だったが、通りはすでにチラチラと夜の顔を見せ始めていた。

「……」

 二人は無言のまま歩いた。気まずい空気が、二人の間に流れていた。

 謙太郎には後ろめたさと、哲男が自分の知らない世界を持っていたことを責める気持ちとが、交錯していた。しかも、それがジャズとは――。

 先に口を切ったのは、哲男だった。

「すまん。隠すつもりはなかったんだが……」

 謙太郎は首を横にふった。

 ずっと避けてきた世界だった。しかし、今は……よくわからなくなっていた。ただ胸の奥に、不思議な温かい何かが灯ったような気がした。

「昔、ビッグ・アップルにいたんだ」

「ビッグ・アップル?」

「ニューヨークだ。ハーレムってとこさ……」

 一緒に歩いているはずの哲男が、急にいなくなったように感じて、謙太郎は横を向いた。

 哲男は海を見ていた。しかし、哲男が見ている海は、この横須賀の海ではないような気がして、思わず大声になった。

「父さん」 

「ん?」

「また、行ってもいい?」

 不安をごまかすように言った。

「……」

 哲男は何も言わなかった。いいとも、だめだとも。その黙りこくっている哲男の横顔には、深い影が浮かんでいた。