桜さくら堂

いらっしゃいませ! 今日もあなたのために、とっておきのお話をご用意しました。

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑥

4.ビギン&ビギンにて

 「五号車どうぞ」

≪ はい、五号車です ≫

「基地入り口、交番前で重田様お願いします」

 西横須賀タクシー有限会社は、謙太郎の家の真向かいにある。宗一郎が祖先から受け継いできた土地を売ってタクシー会社を始めた時には、タクシーはわずか三台だった。それが今では、大型を含めて三十二台にもなっている。

 謙太郎が事務所裏口の小さなドアを開けると、若い女性の声が聞こえてきた。無線係がマイクに話しかけている声だ。そのマイクは、よく刑事ドラマなんかで、ボスが部下に向かって指示を出しているマイクにそっくりだった。

≪ 了解 ≫

 無線係がマイクを置くそばから、また次の電話がかかってきた。

「はい、西横……」

『エグチだ。すぐ来てくれ』

 受話器から、野太い男の声がもれてくる。

「どちらのエグチ様ですか?」

『エグチでわかんねえの?」

「すみません……」

『店だよ、ミセッ』

「えっと、店ってどちらの?」

『プッ』

 切れた。

 雨の金曜日、事務所の電話はずっと鳴りっぱなしだ。無線係は顔を上げて、机上に設置されている五〇インチの大型ディスプレイ画面を見つめた。

 そこには駅を中心として、半径五キロ四方の簡略地図が映し出されている。その上を小さな車が動きまわっていた。車には1番~32番までの数字がついている。この小さな車は会社のタクシーで、それぞれのタクシーが、今どこを走っているかがわかる仕組みになっていた。さらにオレンジが客を乗せているタクシーで、青が客待ち、緑が空車タクシーだ。

 そして、赤く点滅をしている所が、電話番号から割り出された客の現在地点になる。

  無線係はこの画面を見て、客がいる場所から最も近い所を走っている空車タクシーを見つけて、配車支持を出す。登録をしてある電話番号ならすぐに現在地がわかるが、移動している携帯からだとそうもいかない。また走り回っているタクシーに配車指示を出すのは、意外と難しい。画面をチェックするわずか数十秒の遅れが、現場では数百メートルもの位置のズレになってしまう。

 まるでゲームのようだ。しかし、ゲームと違う点が一つだけある。もしも配車指示を間違えれば、その数分後には、血相を変えた運転手が事務所に怒鳴り込んで来ることだ。

「十三号車どうぞ」

≪ …… ≫

「十三号車、感度ありませんか? 十三号車!」

≪ あ、はい ≫

「エグチ様って、知ってますか?」

≪ エグチ……ですか? ≫

「十三じゃ、だめよ」

 オクサンが、無線係からマイクをひったくった。

「二号車どうぞ」

≪ はい、二号車 ≫

「エグチさんってわかりますか? どうぞ」

≪ ああ、エグチさんね、はまゆうのバーでしょ。あのお客は、いつもあそこから乗るのよ。そこへ行けはいいの? ≫

「お願いします」

≪ 了解 ≫

 事務所に小さなため息がもれた。そこへ別の声が入った。

≪ 十三ですが…… ≫

「十三は駅につけて」

 甲高い声で、オクサンが言った。駅前のタクシー・プールの最後尾に並んで、客待ちをしろという意味だ。駅前は狭い場所に他社のタクシーと入り交じって並ぶので、何かと面倒だ。しかも雨は小降りになってきている。じきに止みそうだ。止めば客足も、ぱたっと途絶えてしまう。

「本当にトロいんだから。専務があれじゃ、他の運転手にシメシがつかないじゃないか」

「哲男さん、きっと疲れてるんだわ」

 事務を手伝っている桃子が、脇から言った。

 謙太郎の母の桜子と叔母の桃子は、共に音大に入った学生時代には、二人で共演をしたこともあったそうだ。卒業後、桃子は家に残り、桜子はニューヨークへ渡った。そこで桜子は哲男と出会った。しかし桜子は、謙太郎が生まれてすぐに病死してしまった。

 その後、哲男は赤ん坊の謙太郎を連れてここへ来た。会社からは専務という肩書きをもらっているが、哲男は事務所にいることを嫌って運転手をしていた。

「お店では、評判がいいみたい」

「ここでは関係ないよ」

 ぴしゃっと、オクサンが言った。

  二人が話している間にも、電話はひっきりなしにかかってくる。無線係が取りきれなかった電話が、事務回線にまわってきた。

「はい、西横須賀タクシーです」

 桃子が取り上げて、くっきりとした声で言った。愚痴を言う相手を失くしたオクサンの視線がふっとさまよって、裏口へと向かった。そこでようやく謙太郎に気がついた。

「あらあ、謙ちゃ~~ん」

 オクサンは、急に華やいだ声を出した。さっきまでのイラつきは、すっかり消えている。

「……」

「謙太郎、あいさつは?」

 黙ってにらみつけている謙太郎に、桃子が注意した。

「……ちわ」

 ぶすっと応えた。

 オクサンにとっては歯がゆい哲男かもしれないが、謙太郎にとってはいい父親なのだ。祖母であっても、悪口を言ってほしくなかった。祖母の機嫌を気にかけている桃子も、気に入らなかった。

 二人の前でわざと荒っぽくドアを閉めると、そのまま海の方角へと歩いた。その足はいつしかドブ板通りへと向かい、ビギン&ビギンの前で止まった。開店にはまだ早い時間だったが、ドアを押すと軽く開いた。明かりを落とした薄暗い店の奥に、オーナーの中野修二が立っていた。

 修二は怪訝そうな顔をしたけれど、それが謙太郎だとわかるとくだけた表情になった。

「あ~~、なんだ君か。謙太郎クンでしょ。君のことはお父さんから聞いてるからよく知ってるよ、こっちはね、今、これ聴こうと思ってさ」

 修二は大きなレコードを持っていた。

「これ、知ってる?」

「LP盤レコードのことですか?」

「あれ、知ってたの。若いのに、よく知ってたね~~」

 修二はその言葉ほどには感心しているようすもなく、単なるリップサービスのようだった。

 レコードの上に針がゆっくりと下りてゆくと、そこからアップテンポな曲が流れ出してきた。

 「やっぱり、ビ・バップはいいねえ」

 ヒップ・ホップなら知ってるけれど、ビ・バップって何だろう。修二が持っているレコードのジャケットには、すらっとした黒人の青年がピアノの横に立っている写真がある。ただ単に片腕をピアノにかけて軽く寄りかかっているだけの無造作なポーズだったが、それがそのまま完璧なくらいに決まっていてカッコ良かった。

「ボクもさ、君くらいの時にジャズに出会ったんだよ。いや、もっと前だな。これは何なんだ、このイカシタ音楽はって、すごくショックだったね」

 修二はレコードから流れてくる音楽に合わせて、ピアノを弾き始めた。その音はレコードと同じだったり、わずかにズレていたり、まるっきり違っていたりした。ただ修二は、ゴキゲンでピアノを叩いていた。

「それから勉強なんかそっちのけで、こればっかりでさ。そのうちに高校どうすんのって、まわりが騒ぎ出したんだけどさ。――ボクはそんなの、どうでも良かったんだよねえ」

 修二はピアノを弾きながら、まるで他人事のように自分を語った。

「だって、その頃には、もうデビューしちゃったんだもんね~~」

 修二がチラッと笑顔を見せた。

 それは少年時代のいたずらっぽくもあり、そして純真さもある、ごく一部の大人だけが見せるあの独特の笑顔だった。

「あ、君さ、ちょっとここ押さえてくれる」

 いきなり修二が言った。

「あ、はい」

 軽かった。ポスターを画鋲でとめるから端を押さえてくれる、みたいな感じだった。

「左はここね」

 これくらいで目くじらを立てるなんて子供っぽいかとも思って、言われるまま鍵盤を押した。自分の指先から、懐かしい音がした。

「君ね、ピアノやったことあるでしょ」

「わかるんですか?」

「見くびっちゃいけないよ。これでもプロだよ、音を聴けばわかるよ。じゃあさ、最初から通してやってみようか」

「ええっ」

「簡単だよ。そこ、押すだけだから」

「おれ、音楽ダメなんで」

「わかってるよ、そんなこと。ホントは、まるでなってないよ、でもさ、ジャズはいいんだよ。ジャズってさ、もともとは音楽教育なんか受けていない黒人が、南北戦争の後で手に入れた楽器を持ち寄って、好き勝手に演奏したのが始まりなんだから。ただね、気持ちは入れないとダメだよ。ジャズは、ハートが命なんだから」

 修二は両手で、胸の所でハートを作って見せた。

――そうじゃなくて。

「いいから、いいから」

 修二は手で針を持ち上げて、レコードの真ん中辺の溝にそっと置いた。少し音がぶれてから、スローテンポの曲が始まった。修二はそれに合わせて指を鳴らした。パチン、パチンと大きな音がした。

「はい、ここ」

 有無を言わさぬ声に、仕方なく鍵盤に指を押し付けた。

 濁った音がした。

「次、ここ」

 謙太郎の叩き方にバラつきがあるせいか、同じキーでも違う音のように聞こえた。やがて曲が終わった。

「なかなかいいよ。カンタンでしょ。ジャズはお約束さえ守ってれば、誰だって弾けちゃうんだよ」

「お約束?」

「うん、ジャズには、暗黙の演奏ルールがあるんだよ」

 修二の説明によれば、どんな曲にも1コーラスのコード進行があって、誰かが最初にメロディを一回演奏する。そうしたら後は、この1コーラスのコード進行をもとにして、みんなが順番にアドリブをやる。難しそうに聴こえるけれど、アドリブをとる人も、伴奏をやる人も、この同じコード進行を何度もくり返しているだけなのだそうだ。

 ジャズには、そういう暗黙の演奏ルールがいくつかある。

「逆にいうと、それさえ知ってれば、初対面で合わせなんかやらなくても、すぐに演奏できちゃうんだよ。自由なんだ。著作権なんていったりしないよ、ジャズはみんなのものだからね。いい音楽は、みんなの共有財産なんだ」

――おれ、好きだな、そういうの。

「今のが、Cのブルースね」

「C?]

「そ、Cジャム・ブルース。他に、Fのブルースとか、B♭のブルースとかってのもあるけどね。そういえば赤坂に、B♭(ビー・フラット)って店があって、これがなかなかイカシテるんだな。……気に入った?」

「え」

「そう顔に書いてある」

 ドキッとした。すっかり乾ききった謙太郎の音楽の世界に、ジャズが一気にしみ込んでいった。意志とはうらはらに、心が躍っている。なんだかワクワクして、人生が面白くなってきた気がする。

 図星をさされて、顔に手をやった。

「あはは。冗談だよ。ところで君の家にさ、ピアノある? 無かったらここで弾けばいいよ。いつ来たっていいんだからさ」

「ピアノならあります、けど……」

「けど?」

「あの……」

「いいよ、無理して言わなくても。じゃあ、家でもやってみなよ。良かったらオスカー・ピーターソンかなんか持ってけばいいよ。ちゃんとCDだってあるんだからさ。ウォークマンに全部入れちゃったから、どれ持ってったっていいよ。便利になったねえ、家中の音源がこれ一つで、どこだって持ってけるんだから」

 ウォークマンを持って、また言った。

「こ~~んな、小さなやつにだよ」

「はあ」

「どうしたの? 急に元気が無くなっちゃって」

「あ、いいえ、別に」

 あわてて首を横にふった。ピアノの鍵を考えていた。いまだにピアノには鍵がかかったままだった。

――何処へ隠したっけ?