桜さくら堂

いらっしゃいませ! 今日もあなたのために、とっておきのお話をご用意しました。

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑦

 修二が再びピアノを弾き始めた。オフビートの滑らかな曲が流れた。謙太郎はつっ立ったまま、子供の頃の記憶を辿ろうとしていた。すると、

「あんた、ワルでしょ」

 いきなり背後から、ハスキーな女の人の声がした。振り返ると、ブラウンのソバージュ・ヘアにきつきつのワンピースを着た女の人が、タバコを片手に立っていた。

「見てたのよ、アタシ。この間、あんたがここへ逃げ込むのを。ヘマをやって追われたんでしょ、違う?」

「違いますよ、おばさん。ドラマじゃあるまいし……」

「ちょっとあんた、今、おばさんって言った?」

 女の人は細い眉をつり上げて、謙太郎をにらんだ。

「あ、すいません、間違えました。お姉さん、おれ、こう見えても真面目な高校生なんです。今どきの高校生は、真面目でも生きていくのがしんどいんです、マジ」

「ふう――ん、そうなの、大変ね」

 女の人はカウンターの灰皿にタバコの火を押し付けて、ふ――っと紫煙をはいた。

「あのね、あたしマリアって言うの。変?」

「いいえ、変じゃありません。マリアさん、サイコーです!」

「そうお? ならいいわよ。まあ、ゆっくりしてけばいいわ」

 マリアさんはヒールの音を響かせながら、さらに奥へと歩いていった。その音は、ヒール先生のよりも半音高かった。

 修二が顔を上げると、

「続けていいわよ」

 ピアノに向かって言った。

 マリアさんが、二本目のタバコに火をつけた。もやっと、紫煙が漂った。軽やかに流れていた音が、ふっと途切れた。

「吸い過ぎだよ、マリコ」

 修二が言った。それには応えないで、

 「やっぱりね、アタシ、1コーラスじゃだめよ。それじゃ、つまらないわ。続けて2コーラスがいいわ」

 そう言って、修二を見つめた。

「ああ、いいよ」

「じゃあ、決まりね。いつもアタシが歌う時は、2コーラスよ」

「いつもなの?」

「そうよ、いつもよ。みんなにも言っといてね」

 「ボクから? やだよ、君から言いなよ」

「あら、アタシからじゃだめよ。やっぱり、オーナーのあなたからじゃないと」

「え――っ」

 やれやれというような長いため息をつきながら、修二はピアノを弾き出した。今度のはスロー・テンポで、時どき立ち止まって物思いにふけっているような曲になった。

「さっきのやめたの? でも、ま、こっちのラウンド・ミッドナイトも悪くないわね」

 マリアさんが言った。ドアを開けた謙太郎の背中に、

「まっすぐお家に帰りなさいね、ボク」

と言った。

 もちろん、まっすぐ帰らなかった。向かったのは、タクシー事務所脇にある五〇坪程の倉庫だった。ここはタクシーの整備や定期点検、車検の整備などに使っていて、工具や自動車部品が雑然と置いてある。普段は使う人もなく、ほとんど空いていた。

 謙太郎は倉庫の片隅に、ピラミッドのように高く積み上げられている古タイヤの方へ行った。古タイヤの後ろの壁には、金属製の大きな棚が備え付けてある。棚はサビと埃にまみれていた。手前の棚には、大小さまざまな車の部品が置いてあった。段ボール箱に入ったままのもある。工具類もいくつか並んでいた。

 現在使っている真新しい工具箱には、ドライバー類もいいものばかりが入っていた。一番奥に古びた道具箱が、埃をかぶったまま置かれてある。謙太郎はそれを取り出して、足元に置いた。

 しゃがんで開けようとしたが、うまくいかなかった。蓋が錆びついて、まるで二枚貝のようにぴったりとくっついてしまっていた。新しい工具箱からマイナスのドライバーを出して、その境目をぐっと押し上げてみた。

カパッと、小さな音を立てて蓋が開いた。中は昨日まで使っていたかのようにきれいで、工具類もよく手入れがされたままだった。

 工具類を全部取り出すと、底に数本のビスに混じっておもちゃのような鍵があった。鍵は当時のまま埃も錆もなく、金色に輝いていた。謙太郎が鍵に手を伸ばしかけた時、

 ガアアア――ッ……

 倉庫のシャッターが開き、一台の車が入ってきた。うず高く積み上げられたタイヤが、謙太郎と車との間を遮っていた。

 車から誰かが降りた気配がした。足音は二人だった。運転手と整備士だろうか? しかし、今日ここで車の整備をするという話は無かったはずだ。整備士の派手なロゴ入りの黄色い車も、停まっていなかった。たぶん突発的なサイドミラーの破損とか、ドア開閉の異常とかだろう。いずれにしても、これから稼ぎ時っていうのに、こんな所でぐずぐずと時間をかけたりしないはずだ。

 謙太郎は顔を出すのをやめた。すぐにいなくなってしまう相手に、わざわざ挨拶をするのは面倒だった。しゃがんだままの格好で、耳の後ろから聞こえてくる音を聞くともなしに聞いていた。

「あれに聞いたんだが……」

 意外にも聞こえてきたのは、宗一郎のくぐもった声だった。あれというのは、たぶんオクサンのことだろう。

「まだやってるのか?」

「はい」

 もう一方の声は、哲男だった。

「ジャズ……いつ……」

 宗一郎がなんて聞いたのか、はっきりしなかった。

 哲男がジャズをやめたことは無いはずだ。ニューヨークのマンハッタンからここへ来る前は、ほんのちょっとだけ横浜で演奏していたと聞いている。

「は……」

 哲男もなんて返答したのかわからなかった。ただ、その何かが宗一郎の癇にさわったらしかった。

「ジャズはだめだ」

 話し合いの前に、結論からとなった。

「やめてくれ、この通りだ……」

 宗一郎の声は低く、震えていた。

「もうしわけ……ません」

 それよりも低い声が、それに応えた。すると宗一郎の声が、激しい怒りの声に変わった。

「ジャズで飯が食えるか? お前に期待しているんだぞ。ゆくゆくはここを任せてもいいとさえ思っているんだ。それを――」

「命……なんです。ジャズは」

「たかが音楽じゃないか。そのために桜子は――、ばかな」

 そこで言葉が途切れた。し……んと、静かになった。

 謙太郎は唾を飲み込んだ。ごくっという音が、耳元でやけに大きく聞こえてドキッとした。

「その想いを、ジャズで」

「もう、いい」

 その先を、宗一郎が遮った。

「わかった、もういい。それ以上言うな。わしは、もう知らん。今後、お前たちがどうなっても、わしはもう知らんからなっ」

 真っ赤に膨れ上がった宗一郎の顔が、謙太郎にも見えるようだった。

 宗一郎は荒っぽい足音を立てながら、脇の出口から出て行った。思いっきり開けたドアが反動ではね返って、大きな音をひびかせて閉まった。それっきり、ひっそりと静かになった。哲男はまだいるはずだが、その気配がしなかった。

「謙太郎……」

 いきなり名前を呼ばれた。

「すまんな、そこにいるんだろう?」

――知ってたのか。

「う、うん」

 ごそごそっと間抜けな音をさせて、謙太郎が立ち上がった。

 哲男の顔が、わずかに引きつっている。

「あの、おれ……」

 謙太郎は言った。

「おれもジャズが好きだよ」

「なに?」

「おれ、ジャズメンになるんだ。プロの……」

 哲男は戸惑った顔をした。

「……それは、よく考えた方がいい」

「なんで?」

――喜ぶと思ったのに。

「さっきは命だって言ってただろ?」

「言ったさ。けど……」

 哲男は目を細めて、虚空を見つめた。その目が、すっと謙太郎に向いた。

「甘くないぞ」

 ぞくりとした。鋭利なナイフを胸元に突きつけられた気がした。

「わ、わかってるよ」

「いや、わかってない」

 子供扱いされたようで、反発した。

「わかってないのは父さんの方だよ。おれはマジで、ジャズが好きなんだ。修二さんとピアノをやって、それがわかったんだよ。父さんなんかよりもおれは――」

 自分が言っていることに興奮して、ブレーキがきかなくなっていた。

「おれは、父さんとは違うよ。修二さんみたく、ジャズだけをやるんだ。やりたくもない運転手とのかけもちなんて、ハンパなことは――」

「半端だと」

 パンと頬が鳴った。

 次の瞬間、気づいたら目の前に地面があった。頬がかあっと熱い。すぐに上を向くと、哲男と目が合った。

 しかし、その目は怒っていなかった。それは深い悲しみと、たとえようもないほどの温かさに満ちていた。その目を見て、謙太郎は一瞬でさとった。

――おれ?

 そうか、おれなんだ。父さんにそんな道を歩ませてしまったのは、このおれのせいだったんだ。何てくだらないことを言ってしまったんだろう。

 そう思ったら、今度は耳の先まで熱くなった。

 哲男は目をそらすと、黙って車に乗り込んだ。エンジンが激しく回転する音とギアを入れる音がした。ナンバー13と書かれたタクシーは、バックのまま静かに倉庫から消えていった。