桜さくら堂

いらっしゃいませ! 今日もあなたのために、とっておきのお話をご用意しました。

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑪

六 再び、B&Bにて

 みぞれは夜半過ぎに雪へと変わり、朝にはまた冷たい雨になった。謙太郎はその夜に、40度近い熱を出してダウンした。熱はすぐに下がったが、咳が出るようになった。咳はしつこく、日増しに酷くなっていった。

 心配した広尾が会いに来たけれど、寝たふりをして帰ってもらった。今会えば、きっとつまらない事を言ってしまいそうだった。いや、絶対言う。

 広尾は翌日も来た。翌々日もだ。この日は、あっさりとは帰らなかった。夜遅くなっても帰らないで、謙太郎の部屋を黙って見上げていた。謙太郎はベッドから立ち上がって戸口まで行った。ドアに手をかけたところで、思いとどまった。

 翌日になって、ようやく決心してビギン&ビギンへ行ってみた。しかし、すでに広尾はいなかった。

「あれぇ、昨日会ったんじゃなかったの? すごく遅くなっ帰ってきたから、うんと別れを惜しんできたんだろうなって思っちゃったよ」

 いつもの陽気なノリで、修二が言った。二人は真夜中に、軽トラに乗って小樽に向かって旅立ったということだった。あの時、会わなかった事を、謙太郎は激しく後悔した。格好なんかつけるんじゃなかった。みっともなくても、本音を口走ってしまったとしても、会っとけば良かった。

「オタルなんか、すぐそこだよ」

 修二がなぐさめてくれた。修二が言うと、そんな気がしてくる。けれど一人になった時、寂しいという言葉の本当の意味を知った。

 すっかり落ち込んだせいか、病気に抵抗する気力も失ってしまい、風邪はずるずると悪化していった。桃子に促されて病院に行くと、医師に入院するかと聞かれた。断ったら処置室のベッドで点滴を二本も打たれた。ようやく解放されて待合室にもどったら、そこに池尻がいた。

 池尻は待合室のソファに、うつむきかげんに浅く座っていた。謙太郎に気づいたようだったが、何も言って来なかった。池尻でも病院では、礼儀をわきまえているようだった。

 会計の順番を待つ間に、さりげなくようすをうかがっていると、小児科の方から看護師が足早にやってきた。その看護師は、こっちの一般の看護師とちがって、桜色の制服とナース帽をかぶっていた。

 看護師は、杉村さんだった。杉村さんは笑顔で、まっすぐに池尻の所へ行った。二人は親しそうに話をしていたが、声は謙太郎の所まではとどかなかった。まもなく池尻は、謙太郎の前をスルーして、表玄関から出て行った。杉村さんも戻ろうとして、謙太郎に気がついた。

「あら」

「どうも」

 またぺこりと、首の体操をした。

「どうしたの?」

「なんでもない……」

「なんでもないって、ここは病院よ。なんでもないわけないでしょ」

 杉村さんがにらんだ。看護師の杉村さんは、すごく強くて、嘘が通じない気がした。

「肺炎になるとこだったって」

「まあ、だめじゃない!」

 今度は、顔色を変えて怒った。

「もっと、自分を大事にしなくちゃ」

「はい」

 素直に返事をしたら、ほっとした表情になった。

「もともと健康な人って、その大切さがわからないのよね。ゆうちゃんみたいに、必死になって病気と闘ってきたら……」

「ゆうちゃん?」

「池尻結城くんよ、さっきの。北見くんと同じ学校らしいんだけど、知ってる?」

「まあ」

――知ってるもなにも、今、彼のことが最大の悩みになってるんだ、とはさすがに言えず、二人の噂なら知ってると言葉をにごした。

「へえ、どんな?」

「恋人だって」

「コイビト?」

 杉村さんはすっとんきょうな声を上げて、ぷうっとふき出した。

「あたしたち、なんて言ったらいいのかなあ? 家族でも恋人でもないんだけど、でも時どき、それ以上かなあって思うこともあるわ。一緒になって病気と闘う……戦友、そうね、戦友なのよ」

「はあ」

「きっと、ここにいる人にしかわからないわね。小児病棟の子たちって、ちょっと見にはぜんぜん元気そうなのよ。でもね、みんな病魔と戦っているの、命がけの戦い。ゆうちゃんもそうだった。そしてね、勝つためには希望がいるの。それはその子によって色いろだけど、ゆうちゃんの場合は音楽だった。元気になって、演奏をするんだっていう強い想いが、彼を救ったの。ゆうちゃん、すごく頑張ったのよ」

 そう言って、杉村さんはちょっと涙ぐんだ。池尻は退院した今もやってきて、入院している子供達の相手をしたり、演奏をしているのだそうだ。

――横山の話とはだいぶ違うよな。

 あのイグアナ金髪の池尻と、病弱な少年とが、どうしても結びつかなかった。

「じゃあ、お大事にね。ちゃんと寝てないとだめよ」

 杉村さんは看護師の顔になってそう言うと、手をひらひらふって小児科の方へ戻っていった。

 薬が効いたのか咳は二、三日でおさまってずいぶん楽になった。

 外へ出ると、足は自然とビギン&ビギンへと向かった。ドブ板通りから広尾がいた二階の部屋をぼんやりと見ていた。こうしていると、まだあの部屋に広尾がいて、呼べば窓を開けて顔を出してくるような気がした。

「広尾」

 小さく呼んでみた。

 すると、パッと窓が開いた。

「あら、ぼうや」

 顔を出したのは、マリアさんだった。「ちょうど良かったわ、これ」

 そう言ってマリアさんは窓から身を乗り出すと、一枚の紙切れを落とした。紙は『枯葉』のようにはらはらと頼りなげに宙を舞いながら、謙太郎の手元へ落ちてきた。

「それ、竜ちゃんが置いてったみたいよ。――謙へって書いてあるわ」

「えっ」

 それは、『音が灯る街角で』の詩だった。最後の一行まで、すっかり完成されていた。

 胸が高鳴った。

「マリアさん、ちょっとピアノ弾いてもいいですか?」

「いいわよ。修ちゃん、今いないけど、お店の鍵は開いてるから、勝手に中に入って使ってちょうだい」

「ありがとうございます」

 譜面台に広尾の詩を置いて、静かに目を閉じた。するとかすかにベースの音が聴こえてきた。

 音は初めは小さかったがだんだん大きくなり、やがてくっきりとしてきた。聞きなれた広尾の音だ。かつて一緒に作り上げた音が、今も聞こえてくる。うれしかった。その音の一つ一つを確かめるように拾っていった。

 その途中で、バーーンと店のドアが乱暴に開き、ざわざわと複数の人間が入ってくる気配がした。

「なによ、あんたたち、店はまだ……」

 マリアさんの声も混じっている。

「池尻さんを」

 そんな声もする。

――ついに来たか。

 池尻の取り巻き連中の中の誰かが、謙太郎が店に入るのを目撃したのだろう。広尾のことで頭がいっぱいだったから、注意を払うのを怠っていた。謙太郎は唇をかみしめた。

――いいさ。どうせいつかは、ケリをつけなければならない相手なんだ。

 心が定まると、再び音に集中した。謙太郎はそのままピアノを弾き続けていた。