3.ドブ板通りで
ドブ板通りは、夕暮れとともに目覚める。そして、夜が更ければふけるほど、その表情が生き生きとしてくる所だ。とはいっても、日中はそうでもない。通りも明るいし、表通りと何ら変わりがない。学校から広尾の家へ直行した。
ドブ板通りを行くと、ビギン&ビギンはすぐに見つかった。黒い鉄製のドアに、白いペンキで店の名前が手書きで書いてあった。赤茶けたレンガの壁に、外開きの小さな窓がついていた。店頭にある両開きの展示用スタンドには、何種類かのピザやパスタの写真とその値段がドルと円で書いてある。裏側はアルコール・ドリンクだ。たぶん夜には、こっちを表にするんだろう。
謙太郎はドアに手をかけたが、開けるのを少しためらった。もし、広尾がまだ帰っていなかったら、何て言ったらいいだろうか。窓から中をのぞいてみたが、中はうす暗くてよく見えなかった。
しばらく店の周りをうろうろしていた。もう少し遅くなって、確実に広尾がいる時間に来なければミッションは完了しない。時間つぶしにドブ板通りを出て坂をだらだらと上っていたら、ばったりと池尻に出会った。池尻の周りには、いつもの取り巻き連中が五、六人いた。
「キタミ」
先に気づいたのは池尻で、謙太郎は一瞬遅れた。お互いの距離は、間に二人の通行人をはさんで十メートル程だった。
――あ。
とっさに謙太郎は逃げた。池尻に背を向け、もと来た道を全速力で走った。
「おい、コラ、待てえ――っ」
声が聞こえたのは、そこまでだ。両側の景色が、いくつもの色の線になって流れてゆく。謙太郎の真後ろを、乱れた足音が追いかけてくる。
――九秒フラットだな。
焦りとはうらはらに、心の中でうそぶいた。
海へ向かって下り坂になっている横須賀の道は、思いのほか加速がついて足元が浮き上がってくる。転んだら、ジ・エンドだ。かといって走りを緩めると、ざわめきが近づいてくる。全力疾走もそろそろ限界ってところで、小さなガソリンスタンドが目に入った。
――しめた。あそこに逃げ込もう。そうすれば何とかなるはずだ。
近づいてみるとスタンド内に車も人影もなく、レジ前にいるのは女の子だけだった。
――だめだ。
女の子を巻き込むわけにはいかない。ガソリンスタンドをやり過ごして、再び前を向いた。角を曲がってドブ板通りに入りと、最後の力をふりしぼってまっしぐらに突っ走った。
――さっきのB&Bに駆け込んで、すぐにドアを閉めた。ギッと短い音がした。ざらついた鉄のドアに身体を押しつけて、耳を澄ませた。
間もなく荒々しい足音が、ドアの外を通り過ぎて行くのがわかった。一つ、二つ……五、六。みんな行った。
「はああぁ――っ」
鉄のドアに身体を押しつけたまま、深いため息をついた。ぶわっと、全身に汗がふき出した。ランニングの時とは違う嫌な汗だ。額から流れ落ちてくる汗を手の甲でぬぐって、顔を上げた。
照明が落としてある店内は、まだ目が暗さに慣れていないのか、それとも換気が悪いのか白く霞んで見えた。木製のテーブルとイスが、雑然とあちこちに置かれてある。テーブルの表面には、白と黒のタイルがチェック柄のように埋め込まれていた。部屋の隅には、季節外れの暖炉が燃えている……と思ったが、近づいてみたら電気照明を使ったただの演出だった。
客はボックス席に一人とカウンターに一人いるだけで、誰も謙太郎のことなど気にもとめていなかった。
暗さに目が慣れてくると、イスの革張りのシートの縁が擦り切れていたり、テーブルの上にはタバコの灰が散らばっているのがわかるようになった。
店の奥に低いステージがあって、年代物のアップライト・ピアノが置いてある。そこだけ天井から、小さなスポットライトが当たっていた。
鮮やかな富士山と鷲の刺繍が入ったスカジャンをはおった黒人の青年が、カウンター席に座ってマスターと何か親し気に話している。マスターの後ろの棚には、さまざまな銘柄の酒がズラッと並んでいた。
広尾はいなかった。
きっと住まいは別の所なんだろう。いつまでもここで待っていても、広尾は来ないかもしれなかった。しかもここは謙太郎にとって場違いな感じがして、すぐにでも出ていきたかった。しかし、今すぐ出るわけにはいかない。たぶんまだ池尻が、その辺をうろついているに違いなかった。
ポロン……
ピアノが鳴った。いつ座ったのか、マスターがピアノを弾き始めていた。
反射的に耳を塞いだ。その塞いだ指の間から、クリアーで軽快なメロディーがもれてきた。知らない曲だったが、聴いているだけで体が揺れてきそうな陽気でノリのいいリズムだった。それでも謙太郎を、身を硬くして聴いていた。曲は同じフレーズを、何度もくり返した。
突然、子供の頃の記憶がよみがえってきた。
幼少時、確か五歳の頃だったと思う。謙太郎は叔母の桃子に、ピアノを教わっていた。というよりもむしろ、半強制的に弾かされていたという方が正しいかもしれない。音大出の桃子に、単純なフレーズを何度もなんども練習させられた。桃子もそうやって、ピアノを覚えてきたからだった。
しかし、やや多動なくらい活発は謙太郎にとって、ピアノの前に長時間座らせられるのは苦痛以外のなにものでもなかった。ある日、謙太郎はピアノに鍵をかけて、隠してしまった。すると桃子は、謙太郎にではなく、祖母の京子に問いただしたのだった。
「母さん、ピアノの鍵をどこへやったの?」
「鍵って?」
「とぼけないで。母さんがピアノを憎んでいるのを、私が知らないとでも思っているの?」
祖母の京子は、勝気な女だった。西横須賀タクシー有限会社の経営者は祖父の総一郎だが、実際にそれを動かしているのはこの京子だった。京子は従業員の皆からはオクサンと呼ばれ、家でも会社でも、誰も逆らう者などいなかった。
「でもね、姉さんを死なせたのは、ピアノじゃないのよ。音楽は、姉さんにとって、命のようなものだった……。だから、こうやって姉さんが残した謙ちゃんにも」
桃子の言葉がとぎれ、大きく開いた目から涙がこぼれ落ちた。祖母は顔をそむけた。その肩が大きく波打っていた。それは謙太郎にとって、衝撃的な光景だった。祖母が泣くのを初めて見た。その日以来、桃子が謙太郎にピアノを強いることは無くなった。
――姉さんの子?
この言葉の意味がわかるようになったのは、もう少し後になったからだった。桃子はおとなしくてやさしい女だった。謙太郎は、桃子を母親だと思って育った。桃子でじゅうぶんだった。けれども、やっっぱり……。
――そうだ、音楽だ。音楽が悪いんだ。
こじつけだったかもしれない。それでもかまわなかった。謙太郎は、憎む対象が必要だった。桃子でもなく、京子でもない、何かが。謙太郎にとって、音楽とはそういうものだった。
ところが、今聴いているピアノは違っていた。マスターは乗りというか、ほとんどアドリブで勝って気ままに弾いていた。音楽というよりも、ピアノで遊んでいる子供のようだった。
ふと気づくと、指先でテーブルを叩いていた。テーブルには両側に引き出しがついていて、丸い取っ手があった。つまんで引っ張ったら、取っ手が取れてしまった。
「いけね」
無理やりねじ込もうとしたら、
「何してんの?」
上から声がした。あわてて顔を上げると、広尾が立っていた。