五 音が灯る街角で
「こんにちは」
広尾が家にやってきた。
「あら、いらっしゃい。謙太郎がお友達を連れてくるなんてめずらしいわね」
桃子が笑いかけた。
「広尾竜一です」
名前を聞いたとたん、桃子の表情がこわばった。
「じゃあ、あの……」
「あのって、何だよ?」
謙太郎が言った。
「いいえ」
「はっきり言ったらいいだろ。親がアル中とか、ヒールを、いや、先生を殴ったとか? そんなの、みんなデマだよ」
桃子がびっくりして、首を横にふった。
「それ本当だよ、おばさん。おれはクラスで一番の悪ガキなんだ。なんか問題が起こったら、まずおれじゃないかってみんな思ってるし、カッとなったら何をするかわからないって言われてんだ」
桃子は、あからさまに顔をしかめた。
「おれなんか、どうせロクな人間にならないって……」
「広尾っ」
謙太郎がさえぎった。
「おまえ、なんてこと言うんだ」
広尾は傷つきやすい。そして、ヤケになってるだけだとわかっていた。だけど、こんな時、どうしたらいいのかわからなかった。
ただ幸運なことに、ちょうどこの場に哲男が居合わせた。哲男は広尾に近づくと、顎に手をかけて顔を上に向かせた。そして、その目の中をじっとのぞき込んだ。
「この子は、けっして悪ガキなんかじゃない。君も、そう思わないか?」
桃子は、はっとした顔になった。
すると広尾の顔には、今まで見たこともないような柔らかな笑みが浮かんでいた。
「アンテナを張りすぎるな。そうだな、何か夢中になれるものがあればいいんだが……」
広尾の体が、シャキッとした。
「あるよ。おれ、ベースがやりたいんだ」
「ベースがやりたいだと?」
哲男がくり返した。
謙太郎の脳裏を、あの倉庫での出来事がよぎった。きっと断られるだろうと思った。
「ドラムじゃなくていいのか?」
哲男が言った。
「ベースがいいんだ。おれ、あの低い音を聴くと、なんかこう、体の芯がジーンってシビレてくるんだ」
「痺れるか、面白いことを言うやつだな。よし、わかった」
哲男が言った。広尾の顔がゆがんで、くしゃくしゃになった。
――え、マジ?
哲男が広尾に教えている姿なんて、全く想像がつかなかった。でもそのうちに、B&Bで二人がベースを挟んで話したり、広尾がぎこちない手つきで弦を押さえている姿を見かけるようになって、ようやくこれが現実だと思えるようになった。
哲男は基本的な技術以外は、あまりうるさく言わないようだった。練習しておけと言ったところをやってなくても、気にするようすもなかった。逆に、広尾がちゃんとやってきていても、
「これ、いいだろ?」
と言って、別の曲を始めてしまったりした。
しかし、穏やかな日は長くは続かなかった。広尾がドアをドーンと蹴って入ってきた。様子がいつもと違うのは、すぐにわかった。
「うおおー―っ」
広尾は中へ入るなり、テーブルをひっくり返し椅子を放り投げた。椅子はカウンターに当たって、上に並んでいたグラスが割れて飛び散った。
「きゃあ」
アルバイトの女の子が、悲鳴をあげて奥へ逃げていった。
「やめろ、広尾っ」
謙太郎と広尾は、そのままもつれるように床に倒れ込んだ。
「くそおっ」
広尾は意味不明なことをわめきながら、拳で床を叩いた。
「やめろよ、広尾~~っ」
謙太郎は広尾の腕をつかんで、そう叫ぶしかなかった。
そこへ哲男がやってきて、広尾の胸元をつかんで立ち上がらせた。
「なんだよお」
広尾が息まいた。
その広尾の顔にベースを押し付けるようにして、哲男が言った。
「何があったのか知らないが、それをこいつにぶつけるんだ。いいか、こいつは全部、受け止めてくれるぞ」
広尾はベースを受け取ると、それを力まかせに高々と振り上げた。
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
広尾の声は低くかすれていた。本当にやってしまうと思った。ベースが床に叩きつけられて木っ端みじんになってしまう情景が、ありありと浮かんだ。そうなったら、何もかも終わりだ。哲男だって、さすがに許したりしないだろう。謙太郎は思わず、ぎゅっと目をつぶった。
そのまま時間が止まった。聞こえてくるのは、広尾の荒い息づかいだけだった。長い時間が経った。いや、もしかしたら、ほんのちょっとだけだったかもしれない。
謙太郎が恐るおそる目を開けると、そこにはベースを振り上げたまま仁王立ちしている広尾と、それを黙って見守っている哲男の姿があった。広尾の腕が痙攣して、ぷるぷると震えていた。
一瞬だけ、広尾の目の奥に、今までとは違う小さな光を見たような気がした。その直後、広尾はゆっくりと腕を下した。自ら倒した椅子を起こしてそこに座ると、ベースを抱え込んで弦を弾いた。
ジーーンン……ン
その音の響きを、目を閉じて聞いていた。それから、また弾いた。
ジーーンン……ン
それを何回か確かめるように弾いた後、今度は目を開いて狂ったようにベースを弾き始めた。
それはコードもリズムもなく、ただめちゃくちゃに弾いているだけだった。柔らかだった指先の皮が破れて、血が滲んでいた。それでも広尾は弾くのをやめなかった。
この日を境にして、広尾の腕はめきめきと上達していった。感情が爆発した時には、特にそうだった。そうやって何か事あるごとに上手くなっていく広尾のベースは、まるで怒りを糧にして育っていくモンスターのようだった。