夏が過ぎ秋になって、ハロウィンが終わった。街にはクリスマスの飾り付けが始まっていた。ついに一曲仕上がった。それはボビー・シモンズのモーニンというファンキー・ジャズの代名詞のような曲だった。
哲男はなかなかの出来だと言って、めったに見せない笑顔を見せた。オーナーの修二も喜んで、ビギン&ビギンのクリスマス会に招待してくれた。
イブになって、広尾が迎えにきた。クリスマスのイルミネーションが灯るドブ板通りを、二人は連れ立って歩いた。ここの灯りは市街のただ華やかなだけの飾りつけとは違って、オールド・アメリカンスタイルに近かった。渋くて、大人で、どこか温かみが感じられた。
「あれ」
店と店の狭間にある暗闇を見ていた広尾が、小さな声をあげた。
「今、なんか光った。雪虫かな?」
「なに、それ?」
「知らないの? 北海道では雪が降る前に、雪虫が飛ぶんだ。キラキラ光っててさ、すごくきれいなんだ」
「へえ」
「どっかのエライ先生とかは、虫が光ってんじゃねえって言うんだけど、そんなの、どうだっていいんだ。実際に、光ってんだから。朝陽の中でさ」
「ふうん」
「だけど、さっきのは違うな。ここ、横須賀だし」
「夜だし」
二人はげらげらと笑った。
「広尾……」
ふっと、謙太郎の笑いが止んだ。
「おまえさ、詩書けよ。もっと、じゃんじゃん。書いて書いて書きまくるんだ。そんで、作詞家になれよ」
「はあ」
広尾は間の抜けた顔をした。
「おれなんか……」
「……あれ、良かった。ずっと前に、ヒールが読ませたやつだよ。おまえの詩ってさ、聞いてると、なんだか元気が出てくる感じがするんだよな。それって、おれらだけじゃなくってさ、もっと皆にも聞いてもらうべきだよ」
広尾は、謙太郎を見つめた。
「おまえも、光れるかもな。いや、光るんだ」
「う、うん」
「おまえが詩をつくって、そんで、おれが演奏するんだ」
「いいなあ、それ。……いや、だめだ。実はおれ……」
広尾はためらうように言葉をにごした。何かが心に引っかかっているようだった。
「心配あるの?」
「あ、いや。――そんで、おれらが演奏する、だろ?」
「そうだ、おれらだ。よし、決まりだ。お――っ、なんだかワクワクしてきたぞ!」
「じゃあ、せっかくだからブルー・ノートでつくろうぜ」
「ブルー・ノート?」
「知らないの? 西洋とアフリカの音階が合わさって出来た音階なんだ。ユーモラスで、切なくて、『ミ』と『シ』を半音下げるだけで、出来ちゃうんだ」
そう言って、広尾はブルー・ノート・スケールを口ずさんでみせた。
「カッコいいぞ、それ」
「だろ」
そのまま二人は 一緒にブルー・ノート・スケールを口ずさみながら、ビギン&ビギンへ行った。
ドアを開けると、ほとんどの席がうまっていた。あちこちに黒人の姿が目についた。哲男はまだ来ていなかった。イブだからって、仕事を早めに切り上げるのは難しのだろう。むしろ忙しいはずだ。修二が指ならしのように、軽い曲を弾いていた。
それでも、思っていたよりも早く哲男はやってきた。いつもの黒い革ジャンに両手を突っ込んでいたが、謙太郎に気づくと片手を上げた。
ドラマーの達良がそろうと、セッションが始まった。まず修二のピアノが流れて、それに哲男のベースと達良のドラムが乗っかっていった。軽い曲を何曲か続けて演奏した。ほとんどがダンスのためのスィング・ジャズだった。
ちょうど皆がノッテきた辺りで、マリアさんがやってきた。マリアさんはボリュームのある髪をアップにして、そこへ紫モクレンの花をさしていた。アメリカではこの花をマグノリアといって、あのヴォーカルの女王と呼ばれたビリー・ホリディが好きな花だった。
マリアさんは修二に視線を送ると、次からすぐに歌い出した。
ナイ・タン・ディ~~
マリアさんの後から、修二のピアノが追いかけ、追いついた。マリアさんの声は、B&Bのトイレの奥まで響きわたった。少しかすれてはいるが、伸びが良くて、どこか懐かしさを覚えるような声だった。思い出せないけれど、愛しくて、いつも傍にいた誰かのような声。誰だっただろう。
マリアさんが、満足そうに微笑んだ。今、1コーラスを終えて、次に2コーラス目を歌うために、マリアさんが息をめいっぱい吸い込んだ時だった。修二の指が、まるでF1レーサーのようにピアノの上を走っていった。いつものアドリブだった。
ヴォーカルの次にピアノがテーマをとるのは、ジャズのお約束だった。特別なアレンジが無ければってことだったが、修二は以前マリアさんが2コーラス歌いたいって言っていたことを、すっかり忘れていた。
マリアさんの顔がゆがんで、みるみる赤くなった。けれども修二は気分良くノッテいたため、そのことに全く気がつかなかった。
「今日の彼女、やけに色っぽいなあ」
客にはそう見えた。マリアさんが冷たい視線を修二に送っていると、
「いいねえ、あの流し目」
勘違いした客が、ピイッと口笛を吹いた。修二はそれを自分の演奏に向けられたものと思って、さらにゴキゲンになった。
「イエ~~イ」
――天然だ。
謙太郎は思った。
さらに悪いことに、修二は1コーラスを弾き終わると、続けて2コーラス目に入ってしまった。ベースもドラムもそれに合わせた。
マリアさんの燃える氷のような視線に修二が気づいたのは、すでに自分のアドリブが終わってベースに渡ってからだった。
修二の顔色が、さっと変わった。しかし修正しようにも、修二の演奏は過ぎてしまっていた。おろおろしているうちにドラムになり、ドラムもノリにノリまくって、2コーラスの終盤にさしかかっていた。達良のステックが柔らかくしなって切れのいいリズムを刻んでいく中で、修二の顔色がどんどん青ざめていった。
曲が終わる寸前に、修二がいなくなった。皆は何かの演出かなと思っていた。ちょうどマリアさんが、ボリュームのある低音でラストのスキャットを歌い出したところだった。声には恐ろしいほどのビブラートがかかっていた。
「いつになく哀愁のある歌声だね」
また、さっきの客だ。
曲が終わるやいなや、マリアさんもいなくなった。8ビートのハイなヒールの音を響かせて。
――大人ってのも、大変なんだな。
謙太郎は胸の中で、二人の平安を祈った。
修二とマリアさんは、なかなか戻って来なかった。すると哲男が、謙太郎と広尾を呼んだ。
「弾いてみないか? いいチャンスだぞ」
「えっ」
ぜんぜん自信がなかったが、広尾はやる気満々だった。謙太郎が迷っている間に、
「モーニンやります」
広尾が客に言ってしまった。
すぐに拍手があがった。出ないわけにはいかなくなった。ほんの二十センチほどの高さのステージだったが、その上に立ったら頭の中が真っ白になった。何度も練習した曲なのに、最初のキーさえ浮かんで来なかった。哲男が何か言っている。それも周りの雑音にかき消されて、よく聞き取れなかった。
そんな事はおかまいなしに、達良が左右のスティックを合わせて、コン、コン、とリズムのテンポをつくっている。
「ワン、トゥ……」
カウントが始まった。
「〇△✖ボーイ!」
GIっぽい外人が英語でなにか叫んで、客がゲラゲラと笑った。
――あっ。
それに気を取られて、入る所を逃してしまった。やっと思い出したキーさえもどっかに吹っ飛んで、謙太郎の指は鍵盤のわずか1センチ上で止まったままだ。
――だめだ。
焦ればあせるほと、音が見つからなかった。
「謙……」
多くのざわめきや笑いであふれ返っている騒音の中から、ひっそりとした声が聞こえてきた。声と思ったが、よく耳をすますと、それは広尾のベースだった。
その音は、いつも謙太郎の傍にあった。遥か昔からあって、未来の彼方までずうっと続いている……そう感じさせるような音だった。
それに気づいた瞬間、すうっと気持ちが落ち着いた。広尾のベースに合わせて指を下ろした。今度はうまくいった。その先はただ夢中だった。そのうちに大きな拍手が起こって、やっと曲が終わった。
広尾の顔が上気している。