そして、広尾が笑った。
無邪気な笑顔だった。ああ、こいつ、こんな風に笑うんだと思った。ぼやっとしていて、ステージを降りる時につまずいてコケそうになった。
「実は、おれな」
広尾がふり向いて何か言おうとした時に、耳をつんざくような音が鳴り響いた。入れ違いにステージに上がった常連客が構える間もなくサックスを吹き出した。ジューク・エリントン楽団のあの有名な『A列車で行こう』という曲だ。この曲は、ストレイホーンが故郷のピッツバーグから、あこがれのエリントンがいるハーレムまでの道順を、そのまま歌にしたもので、夢と希望にあふれる曲だ。
「A列車って面白いよお」
そこへ修二が戻ってきた。
「いろんなのがいるんだよ。バスケしたり、ペットを吹き出したりしてさ、電車の中でだよ。日本じゃ考えられないね」
額にバンソウコウさえ貼ってなければ、いつもの陽気な修二だった。マリアさんは戻って来なかった。
「あの、修二さん。ハーレムでは、父さんも一緒だったの?」
「ああ、テツね。もちろん、いたよ。ボクら、125番通りの古いアパートメントにいたんだ。ボクが12階で、テツと彼女が13階でさ。13階って安かったんだよ」
「かのじょ……」
「え、あ、そ、彼女」
「……」
「あはは。桜子さんだよ、君のお母さんの」
「えっ」
「驚いた? 彼女、病気になっちゃって可哀想だった。ーー悪かったね、ボクら何にもしてあげられなくて……」
修二がスコーンと声を落とした。もっと話が聞きたかったけど、怖くもあった。ためらっているうちに、桜子の話は終わってしまった。
「アパートはボロだったけど、屋根がイカしてたんだ。赤い煉瓦の屋根でさ。ボクらはよく屋根の上に乗っかって、いろんな事を話したんだ。……いつか日本で、日本人のジャズをやるんだとか。あと、子供には言えないような話もしたな。バカ言ってさ、楽しかったなあ。下を見ると、車も人もみんな小さくて、蟻んこみたいなんだ。そしたらさ、なんだか白人も黒人も、チャイニーズもさ、みんな同じなんだって思えてきたんだ」
修二がピアノに向かって、セロニアス・モンクのとんがった曲をソロで弾き始めた。ラウンド・ミッドナイトという不協和音が感じられるわびしい曲だ。後から達良のドラムが加わった。
「そろそろ帰りなさい」
哲男が近づいてきて言った。
ーーちぇ。
「広尾くんも」
広尾の住まいはここの二階になっているが、いったん外へ出て外階段を上がらなければならない。
ドアの外は雨だった。氷のように冷たい雨が降っている。哲男が傘を借りるために、また中へ入っていった。庇の下に、謙太郎と広尾だけが取り残された。
閉じたドアの向こう側から、いつ変わったのかやけに元気なメロディがもれてきた。哲男はなかなか戻ってこなかった。
ダッド・デァからニューヨーク・ニューヨークになった。そして、ルイ・アームストロングの『このすばらしき世界』になった。愛称サッチモが、平和への熱い想いをジャズに託した名曲で、クリスマスにこれ以上の曲はないだろうって思えた。
それも終わった。哲男はまだ来ない。やがて哀愁のあるトランペットの音色が聴こえてきた。
「サマータイムだね」
「ああ……」
広尾の声は沈んでいた。
「クリスマスだってのにな」
わざと軽く言って笑ってみせた。
「ああ、クリスマスだってのに」
広尾がそっくり繰り返した。
「どうしたの? 元気ないね。寒いの? おれ、ちょっと見てくる」
「いいよ、寒くない。おれ、北海道育ちだぜ、こんなのどおってこと……」
ぷつん、と言葉が途切れた。
「おれな……」
広尾はいったんためらって、それから決心したようにきっぱりと言った。
「帰ろうと思ってんだ」
「え」
「ーーオタルに。おれ、今度はがまん出来そうな気がするんだ」
そう言って広尾は、自分の両手をじっと見つめた。ベースの弦を何度もなんども弾き続けた広尾の指の皮は、いつしかグローブのように硬くなっていた。
『なに言ってんだよ、おれたち、ここで一緒にジャズをやるんじゃないか! さっき、おれ、永遠ってのを感じたんだ。行くな。行くんじゃない。おまえがいなくなったら、おれ、どうしたらいいんだよ、ばあ〜〜』
そんな言葉が胸の中にうずまいた。しかし、謙太郎の口から出たのは、
「ーーうん」
それだけだった。そう言うのが精いっぱいだった。他にどんな言葉があるだろう? 本当は行ってほしくない。しかし、そう言うことは、広尾を苦しませるだけだとわかっていた。
「忘れんなよ」
ついさっきの夢が、遠い昔のたよりない約束に思えてきた。
「忘れるもんか、そっちこそ」
どこかから、強く激しいスネア・ドラムの音がする。
ーーいや、違う。これは、おれの心臓の音だ。
「ブルー・ノートだかんな」
「決まってんだろ」
そう怒鳴ると謙太郎は哲男を待たないで、降りしきる雨の中を駆け出していた。頬に当たる雨が、横なぐりに散っていく。
「ふざけんな、くそったれ」
思いつくかぎりの悪たれを吐き出しながら、足の向くままずぶ濡れで走った。
気がついたらヴェルニー公園の茂みに立って、横須賀の海を見ていた。日本の海上自衛艦は、暗闇に包まれて姿が見えなかった。しかし、アメリカの航空母艦の周りには、クリスマスを祝うように小さなライトが点々と灯って、船のシルエットを浮かび上がらせていた。
海は墨を流したように真っ黒で、白く濁った雨が海の闇の中へ吸い込まれるように落ちていた。
急にゾクゾクっとした悪寒が、謙太郎を襲ってきた。