風がどうと吹いて、ぶなの葉がチラチラ光るときなどは、虔十はもう、うれしくてうれしくて、ひとりでに笑えてしかたがないのを、むりやり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながら、いつまでもいつまでも、そのぶなの木を見あげて立っているのでした。
虔十公園林 宮沢賢治・作/髙田勲・絵/にっけん教育出版社
虔十はいわゆる知的障害者として描かれていますが、この少年は誠に美しい心根を持った人間なのです。
賢治は自ら、こう語っています。
わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
この虔十(けんじゅう)という名前は、自身の賢治(けんじ)をもじったものともいわれています。
虔十は純粋なので、そういう自然の美しいものを見てうれしくて思わず笑ってしまうのですが、それを子供たちがバカにしますから、笑っているのをごまかしたりするのです。
さて、その虔十が、
「お母、おらさ杉苗七百本、買ってけろ」
それを家のうしろの野原に植えたいのだと言います。杉が育たない土地ですが、父親は虔十がたった一度だけ親にねだったものだからといって、買ってやります。
虔十がそこに杉の苗を植えると、
あんなところに杉など育つものでもない。底はかたい粘土なんだ。やっぱりばかはばかだとみんながいっておりました。
杉は五年までは緑色の心がまっすぐに空のほうへのびていきましたが、もうそれからはだんだん頭がまるくかわって、七年目も八年目もやっぱり丈が九尺(約2.7m)ぐらいでした。
すると今度は百姓が、じょうだんで、「枝打ちをしないのか?」とからかいます。
枝打ちというのは、下の方の枝を山刀で切り落とすことですが、虔十は真に受けて、片っぱしから杉の下枝をはらっていってしまいます。
すると虔十の杉はどれも背が低いので、枝打ちをしてしまうと、その小さな林は明るくがらんとしてしまいました。
それが逆に作用して、明るい並木道のようになったものですから、今度は近くの小学校の子供たちの大すきな遊び場になったのです。
虔十もよろこんで、杉のこっちにかくれながら、口を大きくあいて、はあはあ笑いました。
そして、それをこころよく思っていない平二に、杉の木を切れと迫られます。
しかし虔十は、
「きらなぃ」
と言って、拒みます。
これが虔十の一生の間の、たった一つの人に対する逆らいの言葉だったのです。そのため、虔十は平二に、どしりどしりと殴られてしまうのでした。
そのあと、虔十も平二もチフスにかかって死んでしまいます。
つぎの年、その村に鉄道が通って、駅が出来、畑や田はつぶされて家になり、どんどん栄えて町になっていきます。
しかし、虔十の林だけは、そのまま残っていました。
子供たちは虔十が亡きあとも、変わりなく毎日、虔十の林に集まって遊んでいました。
歳月が流れて、昔、その村から出てアメリカの大学で教授になった人が、久しぶりに故郷にやってきます。何もかも変わってしまったふる里で、虔十の公園林だけがそのまま残っていると言って喜びます。
あれから20年が経ち、虔十の両親もすっかり老人になっていましたが、この杉林だけは虔十の形見だからと、いくら困っても売らなかったからでした。
教授はこう言います。
「ああまったくたれがかしこく、たれがかしこくないかはわかりません。ただどこまでも十力(ほとけのそなえる十種の力)の作用はふしぎです。
ここはもういつまでも子どもたちのうつくしい公園地です。
どうでしょう。ここに虔十公園林と名をつけて、いつまでもこのとおり保存するようにしては」
そして、その通りになります。
杉の黒いりっぱな緑、さわやかなにおい、夏のすずしいかげ、月光色の芝生が、これから多くの人に本当の幸せが何なのかを教えていると賢治は語っています。
そして林は、虔十のいたときのとおり、雨がふっては、すきとおるつめたいしずくを、みじかい草にポタリポタリとおとし、お日さまがかがやいては、あたらしい空気をさわやかにはきだすのでした。
宮沢賢治は教師をしながら、農芸化学者として、貧しい東北の農民のために尽力してきました。
また、仏教にも篤い信仰心を持ち続けていました。
このお話のなかに出てくる十力の不思議な力の作用を、大学の教授に語らせていますが、これはこのまま賢治の思いなのでしょう。
そもそも、虔十が杉苗を7百本と考えつくのもふしぎです。
ここから、もうすでに十力が作用していたのかもしれません。
さて、このお話のなかで、虔十には両親と兄がいることがわかりますが、とても思いやりがある家族です。
おっかさんにいいつけられると、虔十は水を五百ぱいでもくみました。一日一ぱい畑の草もとりました。けれども虔十のおあっかさんもおとうさんも、なかなかそんなことを虔十にいいつけようとはしませんでした。
それから、杉苗を買ってやるところ、
また、枝打ちをして林があんまりがらんとなってしまい、虔十がぼんやり立っていると、
「おう、枝集めべ、いい焚きものうんとできた。林もりっぱになったな」
そう兄さんが言うところなど、
温かい家族につつまれているようすが、さりげなく語られています。
賢治も仏教を信仰している父親と、「人のために尽くすように」といって寝かしつける慈悲深い母親の長男として生まれ、弟妹4人の長男として育ちました。
そういうことも背景にあるのではないのでしょうか。
「虔十公園林」は賢治の作品、銀河鉄道の夜、風の又三郎、注文の多い料理店などの影にかくれて目立たない作品ですが、そういう賢治の思いが強く出ていて印象に残る作品です。
宮沢賢治について
明治29年(1896年)~昭和8年(1933年)
詩人・童話作家・教育者・農芸化学者・宗教者として、全生涯を貧しい東北農民たちのしあわせのためにつくした。
詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』、没後にその全作品を収めた『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)がある。
↓↓↓ こちらは子供にも自分で読めるように、やさしい文章になっています。
虔十公園林/ざしきぼっこのはなし (宮沢賢治のおはなし) [ 宮沢賢治 ]
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