「わたしはもう学校へは行かない。あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」
二年前の五月、まいは小学校を卒業し、中学にはいったばかりだった。始まりはいつもの季節の変わり目の喘息だった。
けれど発作が起きなくなっても、まいは学校へ行けなかった。学校に行くことを考えただけで息が詰まりそうだった。
西の魔女が死んだ/梨木果歩 作/講談社
学校で居場所をなくしたまいが、自然豊かな祖母のところで癒されて元気になっていくという縦糸はすごくシンプルなストーリーです。結局は単身赴任をしていた父親のところに母親と共に行き、転校して新しい学校で登校ができるようになります。
物語は、その2年後、まいが新しい学校で友達も出来て、学校生活を順調に送っているところに、突然、祖母が亡くなったという知らせが来るというショッキングなところから始まります。こんなふうに・・・
西の魔女が死んだ。四時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。まいは事務のおねえさんに呼ばれ、すぐお母さんが迎えに来るから、帰る準備をして校門のところで待っているようにと言われた。何かが起こったのだ。
この話を最初に読んだのは、ずいぶん昔になります。確か児童文学の何かの賞をとったので興味を持って、たまたま寄った新宿の紀伊国屋書店で買って読んだのでした。
(日本児童文学者協会新人賞・新美南吉児童文学賞・小学館文学賞など)
その時は、物語の初めからずっとまいに寄り添って読み進めていったように思います。だから、あまり祖母のことは深く印象には残らなかったのでした。
たとえば、まいがどんなふうに学校で居場所をなくして、いじめを受けるようになったか。まいの父親と母親が離れ離れで暮らしていること。そうして、祖母との生活でも、やはり個性的な隣人のこと、自然豊かな生活のこと。やがて母親が仕事をやめて、まいを連れて単身赴任の父親と暮らすようになること。祖母との別れ。そうして、どうやって再びまいが学校での居場所をつくっていくことになったかなど、そういったさまざまな出来事を、まいの立場から読んでいったのでした。
まいが主人公なのだから、それはそれでまっとうな読み方ではあったのだけれど、それではあまりに読みが浅かったと”認めざるをえない”のでした。
この”認めざるをえない”という言い回しも、まいが学校に行きたくないといった日の夜に、母親が父親に「扱いにくい子」「生きにくいタイプの子」と電話でいっていた言葉を聞いてしまい、気持ちが錨のように沈んでいったときに、「認めざるをえない」と小さくつぶやくのです。
だけどこの、「認めざるをえない」という言葉が、ちょっと大人になった気がして、もう一度いうのです。
「それは認めざるをえないわ」
まいはもう一度呟いた。これですっかりこの言葉を自分のものにできた気がした。
母親の言葉に落ち込みながらも、こういう言葉をつぶやいてみる少女の細やかなところを掬い上げて書いてあります。
この物語は、映画にもなったし、本は3回くらい読んだように思います。私としては珍しいことです。
斎藤一人さんは1冊の本を10回以上読むといいと語っていますが、私はあんまりそういうことをしません。すでに読んで内容が分かってしまっている物語を、もう一度読むのは退屈でしかなかったし、新しい読みたい本がいっぱい出てくるからです。
映画は本に忠実に出来上がっていて、それどころか本にはないリアリティがあって、うれしかったので、これも3回くらい観ました。TV放送のでしたけれど。
映画は本にはない自然とか生活や祖母、そしてまいを現実のものとして観ることができて本をさらに充実させていたし、本は映画では膨大になって表現しきれない部分を文章でしっかりと語っていて、この両者がお互いを補ってどちらもさらに良いものにしているという現象を見たように思いました。
こういうのは、本当にうれしい。うれしいので、何度も観たくなりました。
そうやって何度も読んだり、観たりしているうちに、鈍い私でも、どうやらこの本の真の良さはイギリス人であるこの祖母の魅力を差し置いてはありえないんだなということに、ようやく気がつきました。
それも声高に表現するのではなく、日々の生活の中から、ささやくように語りかけてくるのです。そういった祖母の豊かな精神と生き方、深い愛情などの横糸の素晴らしさで、この物語は成り立っているのでした。
もう一つは、この本の題になっている「西の魔女」という言葉です。
ママが真面目な顔で「そうよ、あの人は本物の魔女よ」と打ち明け、それ以後、二人だけのときはいつもおばあちゃんのことを「西の魔女」と呼ぶようになった、
と書いてあるように、そういう不思議な出来事を、祖母はまいに話します。
ある晩、まいは祖母に、人間は死んだらどうなるの?と聞くと、イギリス人でありながら祖母は、東洋的なこんな話をします。
「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思っています。人は体と魂が合わさってできています。魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにはよくわかりません。いろいろな説がありますけれど、ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですから、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。
赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら」
まいは同じことを父親に聞いたら、「人は死んだらそれまでだ」といわれたことを話します。祖母は、それじゃあ、「おばあちゃんが死んだら、教えてあげます」というのでした。
まいの学校問題は、「転校」ということで解決します。そして、まいは祖母と別れるのですが、その前の日にささいなことで祖母とけんかのような形になってしまい、ちゃんとした別れの言葉もいえないまま、まいは去ってしまいます。そうして、祖母と再び会うこともないまま、祖母は死んでしまうのでした。
まいは二年前に祖母にしたしうちを思って、深く胸を痛めます。でも、もう謝ることもできません。ところが・・・
ああ、おばあちゃんは、おばあちゃんは、おばあちゃんは、覚えていたのだ。あの、約束。
まいはその瞬間、おばあちゃんのあふれんばかりの愛を、降り注ぐ光のように身体じゅうで実感した。その圧倒的な光が、繭を溶かし去り、封印されていた感覚がすべて甦ったようだった。
まいの祖母のモデルは、以前にも書きましたが、『春になったら苺を摘みに・新潮社』というエッセイに出てくるウェスト夫人がモデルになっているのではないかと思います。ウェスト夫人は著者の梨木果歩さんがイギリスに住んでいた時の大家さんだったと思いますが、移民に理解がある平和主義者だったように思います。
この本の祖母もウェスト夫人も、とても魅力的な女性ですね。いつかこんなおばあさんになりたいものだと思いました。
【中古】 西の魔女が死んだ/サチ・パーカー,高橋真悠,りょう,長崎俊一(監督),梨木香歩(原作),トベタバジュン(音楽)
みなさん、こんにちは💛
いつもご訪問をありがとうございます。
私はいったい、初めに何を読んでいたんだろうと思いました。
最初に紀伊国屋書店で買った本は、もう少し素敵な表紙だったような気がするのだけれど、あるいは記憶違いかもしれません。それはすでにどこかへいってしまいました。
それで、もう一度買ったのが、この本でシンプルな深緑の装填になっています。
いずれにしても手元に置いておいて、時どき、気持ちがふさいだ時に読みたい本ですね。そうすれば、まいの祖母に逢えますから。
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