撮影での「雨降りのシーン」というのが、今回のプレバトのお題ですね。
「西の魔女が死んだ」にも、秀逸な雨のシーンがあったことを思い出したので、書いてみたいと思います。
特にいいのが、冒頭の雨が降り始めるシーンなんですね。
「魔女が――倒れた。もうだめみたい」
そう言って母親がまいを学校に車で迎えに来て、そのまま祖母がいるところへ向かうシーンです。
高速まで1時間、高速を四時間、降りて一時間ですから、結構遠いところです。
そのうちに雨が降ってきます。
まずはその雨のシーンを描写した文章と、それから、一句です。
まいは腕をずらして、車のフロントガラスを見つめた。
雨がポツポツとそこに水滴を付け始めた。ママはまだワイパーを動かさない。昨日、テレビが梅雨入りを宣言をしていた。いや、テレビではなく、気象庁が。
雨はだんだん強くなり、窓越しの景色が見えにくくなった。ママはまだワイパーを動かさない。
まいはちらりとママの顔を盗み見た。ママは泣いていた。声も立てずに、ただ涙だけが勝手に流れ落ちているのだというように。これはママの泣き方だ。ずっと以前にも見たことがある。
「ワイパー」まいは小さく言った。
ママは一瞬混乱したようだった。自分の涙にまず気づき、それから外の世界に気づいたのだろう。少し間を置き、
「ああ、雨が降っているのね」と言いつつ、ワイパーを動かした。
水滴が拭われて、街路樹のプラタナスの若葉が次々に現れては去りした。
プラタナスの芽吹きって、何か「勃発」って感じがする。まいは、ぼんやりそう思いながら、ポケットからハンカチを取り出しママに渡した。
「ありがとう」
ママは反射的に応えると、片手でハンドルを握ったままハンカチで涙を拭いた。
―西の魔女が死んだ・梨木果歩作・新潮社よりー
「ワイパー」と云われ気づいた虎が雨
「わいぱー」といわれきづいたとらがあめ
虎が雨〖夏の季語・天文〗虎が涙・虎が涙雨・曽我の雨
旧暦5月28日の雨。親の敵討ちを果たしたのちに討たれた鎌倉時代の武士・曾我十郎裕成の愛人であった大磯の遊女虎御前が、十郎の死を悼んで涙の雨を降らせたという。
上手いですねぇ。
悲嘆、ショック、焦り、願い、混乱・・などの様々想いが渦巻いているであろう「ママ」のことを、そういう安易な言葉で言うのではなく、自分が涙を流していることも、雨が降っていることも気づかずに運転しているってことを描写することで語っています。
まいは雨が降り始めたようすとか、プラタナスがどうのこうの、母親がワイパーを動かさないなど、わりとよく観察していて、そのようすを淡々と語っているんですね。
一方、母親のほうは、雨が降ってきたのも、自分が涙を流しているのも気づかないで運転しているわけです。この対比が、祖母に対する距離感がこういう温度差になっていて、二人の登場人物のことが手に取るようにわかりますね。
たとえば、母親は声も立てずに泣いている、前もそうだったとまいはいいます。気丈な女性だとわかります。その気が強い女性が、雨が降っているのがわからないんです。これは相当ショックなことだと思いますね。
そうやって母親を観察しているんですが、黙ってそっと母親にハンカチを差し出します。そういうまいだって、実はショックを受けているんです。だけど、こういうやさしい心遣いができるんです。いい子ですね。上手いなあって思います。
ここは映画の冒頭で、すごく短いシーンです。
うっかりすると見逃してしまいそうですが、それをカットしないで、ちゃんとシーンとしてあるのがうれしかったです。
短すぎて心理描写も映画ではないので、やや伝わりづらいこのシーンかもしれませんね。映画では表現しきれない気持ちの細やかなところは、本が補っています。ここは是非、本も読んでほしいところです。ここに書いていますけれどね(笑)
句は、上五中七のすべての思いを、『虎が雨』という季語に託しました。
心から大切な人を失ったときに流す涙で、虎が雨というのは、こういう雨ではないでしょうか。これは、
季語の力を信じて、全力で『虎が雨』に乗っかった句です。
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