桜さくら堂

いらっしゃいませ! 今日もあなたのために、とっておきのお話をご用意しました。

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑧

五 音が灯る街角で

 

「こんにちは」

 広尾が家にやってきた。

「あら、いらっしゃい。謙太郎がお友達を連れてくるなんてめずらしいわね」

 桃子が笑いかけた。

「広尾竜一です」

 名前を聞いたとたん、桃子の表情がこわばった。

「じゃあ、あの……」

「あのって、何だよ?」

 謙太郎が言った。

「いいえ」

「はっきり言ったらいいだろ。親がアル中とか、ヒールを、いや、先生を殴ったとか? そんなの、みんなデマだよ」

 桃子がびっくりして、首を横にふった。

「それ本当だよ、おばさん。おれはクラスで一番の悪ガキなんだ。なんか問題が起こったら、まずおれじゃないかってみんな思ってるし、カッとなったら何をするかわからないって言われてんだ」

 桃子は、あからさまに顔をしかめた。

「おれなんか、どうせロクな人間にならないって……」

「広尾っ」

 謙太郎がさえぎった。

「おまえ、なんてこと言うんだ」

 広尾は傷つきやすい。そして、ヤケになってるだけだとわかっていた。だけど、こんな時、どうしたらいいのかわからなかった。

 ただ幸運なことに、ちょうどこの場に哲男が居合わせた。哲男は広尾に近づくと、顎に手をかけて顔を上に向かせた。そして、その目の中をじっとのぞき込んだ。

「この子は、けっして悪ガキなんかじゃない。君も、そう思わないか?」

 桃子は、はっとした顔になった。

 すると広尾の顔には、今まで見たこともないような柔らかな笑みが浮かんでいた。

「アンテナを張りすぎるな。そうだな、何か夢中になれるものがあればいいんだが……」

 広尾の体が、シャキッとした。

「あるよ。おれ、ベースがやりたいんだ」

「ベースがやりたいだと?」

 哲男がくり返した。

 謙太郎の脳裏を、あの倉庫での出来事がよぎった。きっと断られるだろうと思った。

「ドラムじゃなくていいのか?」

 哲男が言った。

「ベースがいいんだ。おれ、あの低い音を聴くと、なんかこう、体の芯がジーンってシビレてくるんだ」

「痺れるか、面白いことを言うやつだな。よし、わかった」

 哲男が言った。広尾の顔がゆがんで、くしゃくしゃになった。

――え、マジ?

 哲男が広尾に教えている姿なんて、全く想像がつかなかった。でもそのうちに、B&Bで二人がベースを挟んで話したり、広尾がぎこちない手つきで弦を押さえている姿を見かけるようになって、ようやくこれが現実だと思えるようになった。

 哲男は基本的な技術以外は、あまりうるさく言わないようだった。練習しておけと言ったところをやってなくても、気にするようすもなかった。逆に、広尾がちゃんとやってきていても、

「これ、いいだろ?」

と言って、別の曲を始めてしまったりした。

 しかし、穏やかな日は長くは続かなかった。広尾がドアをドーンと蹴って入ってきた。様子がいつもと違うのは、すぐにわかった。

「うおおー―っ」

 広尾は中へ入るなり、テーブルをひっくり返し椅子を放り投げた。椅子はカウンターに当たって、上に並んでいたグラスが割れて飛び散った。

「きゃあ」

 アルバイトの女の子が、悲鳴をあげて奥へ逃げていった。

「やめろ、広尾っ」

 謙太郎と広尾は、そのままもつれるように床に倒れ込んだ。

「くそおっ」

 広尾は意味不明なことをわめきながら、拳で床を叩いた。

「やめろよ、広尾~~っ」

 謙太郎は広尾の腕をつかんで、そう叫ぶしかなかった。

 そこへ哲男がやってきて、広尾の胸元をつかんで立ち上がらせた。

「なんだよお」

 広尾が息まいた。

 その広尾の顔にベースを押し付けるようにして、哲男が言った。

「何があったのか知らないが、それをこいつにぶつけるんだ。いいか、こいつは全部、受け止めてくれるぞ」

 広尾はベースを受け取ると、それを力まかせに高々と振り上げた。

 「じゃあ、そうさせてもらうよ」

 広尾の声は低くかすれていた。本当にやってしまうと思った。ベースが床に叩きつけられて木っ端みじんになってしまう情景が、ありありと浮かんだ。そうなったら、何もかも終わりだ。哲男だって、さすがに許したりしないだろう。謙太郎は思わず、ぎゅっと目をつぶった。

 そのまま時間が止まった。聞こえてくるのは、広尾の荒い息づかいだけだった。長い時間が経った。いや、もしかしたら、ほんのちょっとだけだったかもしれない。

 謙太郎が恐るおそる目を開けると、そこにはベースを振り上げたまま仁王立ちしている広尾と、それを黙って見守っている哲男の姿があった。広尾の腕が痙攣して、ぷるぷると震えていた。

 一瞬だけ、広尾の目の奥に、今までとは違う小さな光を見たような気がした。その直後、広尾はゆっくりと腕を下した。自ら倒した椅子を起こしてそこに座ると、ベースを抱え込んで弦を弾いた。

 ジーーンン……ン

 その音の響きを、目を閉じて聞いていた。それから、また弾いた。

 ジーーンン……ン

 それを何回か確かめるように弾いた後、今度は目を開いて狂ったようにベースを弾き始めた。

 それはコードもリズムもなく、ただめちゃくちゃに弾いているだけだった。柔らかだった指先の皮が破れて、血が滲んでいた。それでも広尾は弾くのをやめなかった。

 この日を境にして、広尾の腕はめきめきと上達していった。感情が爆発した時には、特にそうだった。そうやって何か事あるごとに上手くなっていく広尾のベースは、まるで怒りを糧にして育っていくモンスターのようだった。

 

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑦

 修二が再びピアノを弾き始めた。オフビートの滑らかな曲が流れた。謙太郎はつっ立ったまま、子供の頃の記憶を辿ろうとしていた。すると、

「あんた、ワルでしょ」

 いきなり背後から、ハスキーな女の人の声がした。振り返ると、ブラウンのソバージュ・ヘアにきつきつのワンピースを着た女の人が、タバコを片手に立っていた。

「見てたのよ、アタシ。この間、あんたがここへ逃げ込むのを。ヘマをやって追われたんでしょ、違う?」

「違いますよ、おばさん。ドラマじゃあるまいし……」

「ちょっとあんた、今、おばさんって言った?」

 女の人は細い眉をつり上げて、謙太郎をにらんだ。

「あ、すいません、間違えました。お姉さん、おれ、こう見えても真面目な高校生なんです。今どきの高校生は、真面目でも生きていくのがしんどいんです、マジ」

「ふう――ん、そうなの、大変ね」

 女の人はカウンターの灰皿にタバコの火を押し付けて、ふ――っと紫煙をはいた。

「あのね、あたしマリアって言うの。変?」

「いいえ、変じゃありません。マリアさん、サイコーです!」

「そうお? ならいいわよ。まあ、ゆっくりしてけばいいわ」

 マリアさんはヒールの音を響かせながら、さらに奥へと歩いていった。その音は、ヒール先生のよりも半音高かった。

 修二が顔を上げると、

「続けていいわよ」

 ピアノに向かって言った。

 マリアさんが、二本目のタバコに火をつけた。もやっと、紫煙が漂った。軽やかに流れていた音が、ふっと途切れた。

「吸い過ぎだよ、マリコ」

 修二が言った。それには応えないで、

 「やっぱりね、アタシ、1コーラスじゃだめよ。それじゃ、つまらないわ。続けて2コーラスがいいわ」

 そう言って、修二を見つめた。

「ああ、いいよ」

「じゃあ、決まりね。いつもアタシが歌う時は、2コーラスよ」

「いつもなの?」

「そうよ、いつもよ。みんなにも言っといてね」

 「ボクから? やだよ、君から言いなよ」

「あら、アタシからじゃだめよ。やっぱり、オーナーのあなたからじゃないと」

「え――っ」

 やれやれというような長いため息をつきながら、修二はピアノを弾き出した。今度のはスロー・テンポで、時どき立ち止まって物思いにふけっているような曲になった。

「さっきのやめたの? でも、ま、こっちのラウンド・ミッドナイトも悪くないわね」

 マリアさんが言った。ドアを開けた謙太郎の背中に、

「まっすぐお家に帰りなさいね、ボク」

と言った。

 もちろん、まっすぐ帰らなかった。向かったのは、タクシー事務所脇にある五〇坪程の倉庫だった。ここはタクシーの整備や定期点検、車検の整備などに使っていて、工具や自動車部品が雑然と置いてある。普段は使う人もなく、ほとんど空いていた。

 謙太郎は倉庫の片隅に、ピラミッドのように高く積み上げられている古タイヤの方へ行った。古タイヤの後ろの壁には、金属製の大きな棚が備え付けてある。棚はサビと埃にまみれていた。手前の棚には、大小さまざまな車の部品が置いてあった。段ボール箱に入ったままのもある。工具類もいくつか並んでいた。

 現在使っている真新しい工具箱には、ドライバー類もいいものばかりが入っていた。一番奥に古びた道具箱が、埃をかぶったまま置かれてある。謙太郎はそれを取り出して、足元に置いた。

 しゃがんで開けようとしたが、うまくいかなかった。蓋が錆びついて、まるで二枚貝のようにぴったりとくっついてしまっていた。新しい工具箱からマイナスのドライバーを出して、その境目をぐっと押し上げてみた。

カパッと、小さな音を立てて蓋が開いた。中は昨日まで使っていたかのようにきれいで、工具類もよく手入れがされたままだった。

 工具類を全部取り出すと、底に数本のビスに混じっておもちゃのような鍵があった。鍵は当時のまま埃も錆もなく、金色に輝いていた。謙太郎が鍵に手を伸ばしかけた時、

 ガアアア――ッ……

 倉庫のシャッターが開き、一台の車が入ってきた。うず高く積み上げられたタイヤが、謙太郎と車との間を遮っていた。

 車から誰かが降りた気配がした。足音は二人だった。運転手と整備士だろうか? しかし、今日ここで車の整備をするという話は無かったはずだ。整備士の派手なロゴ入りの黄色い車も、停まっていなかった。たぶん突発的なサイドミラーの破損とか、ドア開閉の異常とかだろう。いずれにしても、これから稼ぎ時っていうのに、こんな所でぐずぐずと時間をかけたりしないはずだ。

 謙太郎は顔を出すのをやめた。すぐにいなくなってしまう相手に、わざわざ挨拶をするのは面倒だった。しゃがんだままの格好で、耳の後ろから聞こえてくる音を聞くともなしに聞いていた。

「あれに聞いたんだが……」

 意外にも聞こえてきたのは、宗一郎のくぐもった声だった。あれというのは、たぶんオクサンのことだろう。

「まだやってるのか?」

「はい」

 もう一方の声は、哲男だった。

「ジャズ……いつ……」

 宗一郎がなんて聞いたのか、はっきりしなかった。

 哲男がジャズをやめたことは無いはずだ。ニューヨークのマンハッタンからここへ来る前は、ほんのちょっとだけ横浜で演奏していたと聞いている。

「は……」

 哲男もなんて返答したのかわからなかった。ただ、その何かが宗一郎の癇にさわったらしかった。

「ジャズはだめだ」

 話し合いの前に、結論からとなった。

「やめてくれ、この通りだ……」

 宗一郎の声は低く、震えていた。

「もうしわけ……ません」

 それよりも低い声が、それに応えた。すると宗一郎の声が、激しい怒りの声に変わった。

「ジャズで飯が食えるか? お前に期待しているんだぞ。ゆくゆくはここを任せてもいいとさえ思っているんだ。それを――」

「命……なんです。ジャズは」

「たかが音楽じゃないか。そのために桜子は――、ばかな」

 そこで言葉が途切れた。し……んと、静かになった。

 謙太郎は唾を飲み込んだ。ごくっという音が、耳元でやけに大きく聞こえてドキッとした。

「その想いを、ジャズで」

「もう、いい」

 その先を、宗一郎が遮った。

「わかった、もういい。それ以上言うな。わしは、もう知らん。今後、お前たちがどうなっても、わしはもう知らんからなっ」

 真っ赤に膨れ上がった宗一郎の顔が、謙太郎にも見えるようだった。

 宗一郎は荒っぽい足音を立てながら、脇の出口から出て行った。思いっきり開けたドアが反動ではね返って、大きな音をひびかせて閉まった。それっきり、ひっそりと静かになった。哲男はまだいるはずだが、その気配がしなかった。

「謙太郎……」

 いきなり名前を呼ばれた。

「すまんな、そこにいるんだろう?」

――知ってたのか。

「う、うん」

 ごそごそっと間抜けな音をさせて、謙太郎が立ち上がった。

 哲男の顔が、わずかに引きつっている。

「あの、おれ……」

 謙太郎は言った。

「おれもジャズが好きだよ」

「なに?」

「おれ、ジャズメンになるんだ。プロの……」

 哲男は戸惑った顔をした。

「……それは、よく考えた方がいい」

「なんで?」

――喜ぶと思ったのに。

「さっきは命だって言ってただろ?」

「言ったさ。けど……」

 哲男は目を細めて、虚空を見つめた。その目が、すっと謙太郎に向いた。

「甘くないぞ」

 ぞくりとした。鋭利なナイフを胸元に突きつけられた気がした。

「わ、わかってるよ」

「いや、わかってない」

 子供扱いされたようで、反発した。

「わかってないのは父さんの方だよ。おれはマジで、ジャズが好きなんだ。修二さんとピアノをやって、それがわかったんだよ。父さんなんかよりもおれは――」

 自分が言っていることに興奮して、ブレーキがきかなくなっていた。

「おれは、父さんとは違うよ。修二さんみたく、ジャズだけをやるんだ。やりたくもない運転手とのかけもちなんて、ハンパなことは――」

「半端だと」

 パンと頬が鳴った。

 次の瞬間、気づいたら目の前に地面があった。頬がかあっと熱い。すぐに上を向くと、哲男と目が合った。

 しかし、その目は怒っていなかった。それは深い悲しみと、たとえようもないほどの温かさに満ちていた。その目を見て、謙太郎は一瞬でさとった。

――おれ?

 そうか、おれなんだ。父さんにそんな道を歩ませてしまったのは、このおれのせいだったんだ。何てくだらないことを言ってしまったんだろう。

 そう思ったら、今度は耳の先まで熱くなった。

 哲男は目をそらすと、黙って車に乗り込んだ。エンジンが激しく回転する音とギアを入れる音がした。ナンバー13と書かれたタクシーは、バックのまま静かに倉庫から消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑥

4.ビギン&ビギンにて

 「五号車どうぞ」

≪ はい、五号車です ≫

「基地入り口、交番前で重田様お願いします」

 西横須賀タクシー有限会社は、謙太郎の家の真向かいにある。宗一郎が祖先から受け継いできた土地を売ってタクシー会社を始めた時には、タクシーはわずか三台だった。それが今では、大型を含めて三十二台にもなっている。

 謙太郎が事務所裏口の小さなドアを開けると、若い女性の声が聞こえてきた。無線係がマイクに話しかけている声だ。そのマイクは、よく刑事ドラマなんかで、ボスが部下に向かって指示を出しているマイクにそっくりだった。

≪ 了解 ≫

 無線係がマイクを置くそばから、また次の電話がかかってきた。

「はい、西横……」

『エグチだ。すぐ来てくれ』

 受話器から、野太い男の声がもれてくる。

「どちらのエグチ様ですか?」

『エグチでわかんねえの?」

「すみません……」

『店だよ、ミセッ』

「えっと、店ってどちらの?」

『プッ』

 切れた。

 雨の金曜日、事務所の電話はずっと鳴りっぱなしだ。無線係は顔を上げて、机上に設置されている五〇インチの大型ディスプレイ画面を見つめた。

 そこには駅を中心として、半径五キロ四方の簡略地図が映し出されている。その上を小さな車が動きまわっていた。車には1番~32番までの数字がついている。この小さな車は会社のタクシーで、それぞれのタクシーが、今どこを走っているかがわかる仕組みになっていた。さらにオレンジが客を乗せているタクシーで、青が客待ち、緑が空車タクシーだ。

 そして、赤く点滅をしている所が、電話番号から割り出された客の現在地点になる。

  無線係はこの画面を見て、客がいる場所から最も近い所を走っている空車タクシーを見つけて、配車支持を出す。登録をしてある電話番号ならすぐに現在地がわかるが、移動している携帯からだとそうもいかない。また走り回っているタクシーに配車指示を出すのは、意外と難しい。画面をチェックするわずか数十秒の遅れが、現場では数百メートルもの位置のズレになってしまう。

 まるでゲームのようだ。しかし、ゲームと違う点が一つだけある。もしも配車指示を間違えれば、その数分後には、血相を変えた運転手が事務所に怒鳴り込んで来ることだ。

「十三号車どうぞ」

≪ …… ≫

「十三号車、感度ありませんか? 十三号車!」

≪ あ、はい ≫

「エグチ様って、知ってますか?」

≪ エグチ……ですか? ≫

「十三じゃ、だめよ」

 オクサンが、無線係からマイクをひったくった。

「二号車どうぞ」

≪ はい、二号車 ≫

「エグチさんってわかりますか? どうぞ」

≪ ああ、エグチさんね、はまゆうのバーでしょ。あのお客は、いつもあそこから乗るのよ。そこへ行けはいいの? ≫

「お願いします」

≪ 了解 ≫

 事務所に小さなため息がもれた。そこへ別の声が入った。

≪ 十三ですが…… ≫

「十三は駅につけて」

 甲高い声で、オクサンが言った。駅前のタクシー・プールの最後尾に並んで、客待ちをしろという意味だ。駅前は狭い場所に他社のタクシーと入り交じって並ぶので、何かと面倒だ。しかも雨は小降りになってきている。じきに止みそうだ。止めば客足も、ぱたっと途絶えてしまう。

「本当にトロいんだから。専務があれじゃ、他の運転手にシメシがつかないじゃないか」

「哲男さん、きっと疲れてるんだわ」

 事務を手伝っている桃子が、脇から言った。

 謙太郎の母の桜子と叔母の桃子は、共に音大に入った学生時代には、二人で共演をしたこともあったそうだ。卒業後、桃子は家に残り、桜子はニューヨークへ渡った。そこで桜子は哲男と出会った。しかし桜子は、謙太郎が生まれてすぐに病死してしまった。

 その後、哲男は赤ん坊の謙太郎を連れてここへ来た。会社からは専務という肩書きをもらっているが、哲男は事務所にいることを嫌って運転手をしていた。

「お店では、評判がいいみたい」

「ここでは関係ないよ」

 ぴしゃっと、オクサンが言った。

  二人が話している間にも、電話はひっきりなしにかかってくる。無線係が取りきれなかった電話が、事務回線にまわってきた。

「はい、西横須賀タクシーです」

 桃子が取り上げて、くっきりとした声で言った。愚痴を言う相手を失くしたオクサンの視線がふっとさまよって、裏口へと向かった。そこでようやく謙太郎に気がついた。

「あらあ、謙ちゃ~~ん」

 オクサンは、急に華やいだ声を出した。さっきまでのイラつきは、すっかり消えている。

「……」

「謙太郎、あいさつは?」

 黙ってにらみつけている謙太郎に、桃子が注意した。

「……ちわ」

 ぶすっと応えた。

 オクサンにとっては歯がゆい哲男かもしれないが、謙太郎にとってはいい父親なのだ。祖母であっても、悪口を言ってほしくなかった。祖母の機嫌を気にかけている桃子も、気に入らなかった。

 二人の前でわざと荒っぽくドアを閉めると、そのまま海の方角へと歩いた。その足はいつしかドブ板通りへと向かい、ビギン&ビギンの前で止まった。開店にはまだ早い時間だったが、ドアを押すと軽く開いた。明かりを落とした薄暗い店の奥に、オーナーの中野修二が立っていた。

 修二は怪訝そうな顔をしたけれど、それが謙太郎だとわかるとくだけた表情になった。

「あ~~、なんだ君か。謙太郎クンでしょ。君のことはお父さんから聞いてるからよく知ってるよ、こっちはね、今、これ聴こうと思ってさ」

 修二は大きなレコードを持っていた。

「これ、知ってる?」

「LP盤レコードのことですか?」

「あれ、知ってたの。若いのに、よく知ってたね~~」

 修二はその言葉ほどには感心しているようすもなく、単なるリップサービスのようだった。

 レコードの上に針がゆっくりと下りてゆくと、そこからアップテンポな曲が流れ出してきた。

 「やっぱり、ビ・バップはいいねえ」

 ヒップ・ホップなら知ってるけれど、ビ・バップって何だろう。修二が持っているレコードのジャケットには、すらっとした黒人の青年がピアノの横に立っている写真がある。ただ単に片腕をピアノにかけて軽く寄りかかっているだけの無造作なポーズだったが、それがそのまま完璧なくらいに決まっていてカッコ良かった。

「ボクもさ、君くらいの時にジャズに出会ったんだよ。いや、もっと前だな。これは何なんだ、このイカシタ音楽はって、すごくショックだったね」

 修二はレコードから流れてくる音楽に合わせて、ピアノを弾き始めた。その音はレコードと同じだったり、わずかにズレていたり、まるっきり違っていたりした。ただ修二は、ゴキゲンでピアノを叩いていた。

「それから勉強なんかそっちのけで、こればっかりでさ。そのうちに高校どうすんのって、まわりが騒ぎ出したんだけどさ。――ボクはそんなの、どうでも良かったんだよねえ」

 修二はピアノを弾きながら、まるで他人事のように自分を語った。

「だって、その頃には、もうデビューしちゃったんだもんね~~」

 修二がチラッと笑顔を見せた。

 それは少年時代のいたずらっぽくもあり、そして純真さもある、ごく一部の大人だけが見せるあの独特の笑顔だった。

「あ、君さ、ちょっとここ押さえてくれる」

 いきなり修二が言った。

「あ、はい」

 軽かった。ポスターを画鋲でとめるから端を押さえてくれる、みたいな感じだった。

「左はここね」

 これくらいで目くじらを立てるなんて子供っぽいかとも思って、言われるまま鍵盤を押した。自分の指先から、懐かしい音がした。

「君ね、ピアノやったことあるでしょ」

「わかるんですか?」

「見くびっちゃいけないよ。これでもプロだよ、音を聴けばわかるよ。じゃあさ、最初から通してやってみようか」

「ええっ」

「簡単だよ。そこ、押すだけだから」

「おれ、音楽ダメなんで」

「わかってるよ、そんなこと。ホントは、まるでなってないよ、でもさ、ジャズはいいんだよ。ジャズってさ、もともとは音楽教育なんか受けていない黒人が、南北戦争の後で手に入れた楽器を持ち寄って、好き勝手に演奏したのが始まりなんだから。ただね、気持ちは入れないとダメだよ。ジャズは、ハートが命なんだから」

 修二は両手で、胸の所でハートを作って見せた。

――そうじゃなくて。

「いいから、いいから」

 修二は手で針を持ち上げて、レコードの真ん中辺の溝にそっと置いた。少し音がぶれてから、スローテンポの曲が始まった。修二はそれに合わせて指を鳴らした。パチン、パチンと大きな音がした。

「はい、ここ」

 有無を言わさぬ声に、仕方なく鍵盤に指を押し付けた。

 濁った音がした。

「次、ここ」

 謙太郎の叩き方にバラつきがあるせいか、同じキーでも違う音のように聞こえた。やがて曲が終わった。

「なかなかいいよ。カンタンでしょ。ジャズはお約束さえ守ってれば、誰だって弾けちゃうんだよ」

「お約束?」

「うん、ジャズには、暗黙の演奏ルールがあるんだよ」

 修二の説明によれば、どんな曲にも1コーラスのコード進行があって、誰かが最初にメロディを一回演奏する。そうしたら後は、この1コーラスのコード進行をもとにして、みんなが順番にアドリブをやる。難しそうに聴こえるけれど、アドリブをとる人も、伴奏をやる人も、この同じコード進行を何度もくり返しているだけなのだそうだ。

 ジャズには、そういう暗黙の演奏ルールがいくつかある。

「逆にいうと、それさえ知ってれば、初対面で合わせなんかやらなくても、すぐに演奏できちゃうんだよ。自由なんだ。著作権なんていったりしないよ、ジャズはみんなのものだからね。いい音楽は、みんなの共有財産なんだ」

――おれ、好きだな、そういうの。

「今のが、Cのブルースね」

「C?]

「そ、Cジャム・ブルース。他に、Fのブルースとか、B♭のブルースとかってのもあるけどね。そういえば赤坂に、B♭(ビー・フラット)って店があって、これがなかなかイカシテるんだな。……気に入った?」

「え」

「そう顔に書いてある」

 ドキッとした。すっかり乾ききった謙太郎の音楽の世界に、ジャズが一気にしみ込んでいった。意志とはうらはらに、心が躍っている。なんだかワクワクして、人生が面白くなってきた気がする。

 図星をさされて、顔に手をやった。

「あはは。冗談だよ。ところで君の家にさ、ピアノある? 無かったらここで弾けばいいよ。いつ来たっていいんだからさ」

「ピアノならあります、けど……」

「けど?」

「あの……」

「いいよ、無理して言わなくても。じゃあ、家でもやってみなよ。良かったらオスカー・ピーターソンかなんか持ってけばいいよ。ちゃんとCDだってあるんだからさ。ウォークマンに全部入れちゃったから、どれ持ってったっていいよ。便利になったねえ、家中の音源がこれ一つで、どこだって持ってけるんだから」

 ウォークマンを持って、また言った。

「こ~~んな、小さなやつにだよ」

「はあ」

「どうしたの? 急に元気が無くなっちゃって」

「あ、いいえ、別に」

 あわてて首を横にふった。ピアノの鍵を考えていた。いまだにピアノには鍵がかかったままだった。

――何処へ隠したっけ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ⑤

「驚かすなよ」

 取っ手を持ったまま言った。

「気にしなくていいよ。どうせそこ、もとから壊れてんだ」

「ちえっ」

「中にチェスのコマが入ってるんだ。テーブルの上で出来るようにね。……で、何しに来たの?」

「あ、そうだった」

 謙太郎は、カバンを出して言った。

「これでミッション完了だ」

「ミッション?」

 変な顔をして、広尾が受け取った。手の甲に血がにじんでいる。

「その手……」

「なんでもないよ」

 広尾がぶすっと言った。

 マスターはさっきの曲を終えて、別のを弾き始めた。これも軽快な曲だ。

「クレオパトラの虹だよ」

 広尾が言った。すぐにクレオパトラの夢だったかも、と言い直した。

「いいだろ?」

「……」

――そんなような気もする。なぜか胸が痛まないし。

 また新しい曲に変わった。今度のはスローテンポで、じっくりと聴かせる曲だ。

「いいよな、ナイ・タンディ~~」

 広尾がピアノに合わせて口ずさんだ。謙太郎にはそれが、「泣いたんで~~」というように聞こえた。

 泣いたんで~~

 泣いたんで~~

「オフクロ、これ、好きなんだ」

 ぷつりと歌うのをやめて、広尾が言った。

「え」

「オタルにいるんだ。妹もね」

 話がいきなり飛んだので、謙太郎は面食らった。それが北海道の小樽だと理解するのに、ちょっとかかった。

「おれ……」

 ボクサーみたいに、広尾が自分の握りこぶしを謙太郎の前に突き出して言った。

「わかるだろ?」

――はあ?

 謙太郎は首をかしげた。

 すると広尾が、じれったそうに言った。

「暴れるからだよ」

 謙太郎はうなずいた。

「ああ」

――それならわかる。

「おまえって、すぐカッとなっちゃうタイプだよな」

「いつも家の中がめちゃくちゃでさ、オフクロが青ざめた顔してて、妹が泣いてて……。それが、おれのせいなんだ」

 広尾の声が沈んだ。

 「ずぶぬれで帰ったら、オフクロと妹がケーキなんか焼いてんだ。すごく楽しそうにさ。……おれ、それをぶん投げちゃったんだ。妹がぎゃんぎゃん泣いて……、それ、お兄ちゃんのバースディ・ケーキなんだよって。……おれ、何であんな事しちゃったんだろ?」

 それっきり広尾は、黙りこくっている。そろそろ帰ろうと思った。

 ポロンと、また曲調が変わった。

 マスターが次の曲のイントロを始めていた。

「イエスタディズだね」

 広尾が言った。門前小僧がお経を知っているみたいに、広尾はジャズナンバーを良く知っていた。

 いつの間にかピアノの周りに、他のメンバーが集まってきていた。店内にも客が増え始めている。

 同じ曲でもドラムとベースが加わると、曲に厚みと迫力が出てきた。

「あっ」

 そのメンバーを見て、謙太郎は目をこすった。

「タバコの煙が目にしみる?」

 広尾が言った。

「いや」

 謙太郎の目は、ベースの男に釘付けになっていた。

「知ってる人?」

 謙太郎はうなずいた。知ってるもなにも、あれは……。

――父さんだ。

 曲の半ばになると、ピアノが主旋律からさがって、ベースがテーマを弾き始めた。

 哲男は目を閉じて、頭を軽く動かしながらリズムを取っていた。曲の中にすっぽりと気持ちが入っている。

 ベースからドラムに渡った時に、短い拍手が起こった。ベースに向けられた拍手だった。哲男の顔が、今まで見たこともないくらいに生き生きと輝いている。呆然と見つめている謙太郎に、広尾がドラマーを指さして言った。

「あれ、オヤジ」

 ドラムを叩いている男は、短いヒゲを生やしているだけの普通の中年の男だ。ヒゲもどちらかというと、無精ヒゲに近い。

 シャッ、シャ、トゥルル――ッ

 しかし、スティックさばきの凄さは、素人の謙太郎にもわかった。シンバル中心の落ち着いたリズムだが、キレが抜群で複雑なリズムを難なくこなしていた。広尾達良と言って、ドラマーの間ではわりと有名なんだぜ、と広尾が胸をはった。

 哲男がベースを弾きながら、客席に顔を向けた。そして、謙太郎がいる方角で、その手が一瞬だけ止まった、が、何事もなかったように、また演奏を続けた。

 イエスタディズが終わると、哲男はベースをピアノの横に置いて、まっすぐ謙太郎の所へ来た。

「帰るぞ」

 有無を言わせない言い方だった。

 二人は店を出て、ドブ板通りを歩いていった。夜というにはまだ早い時間だったが、通りはすでにチラチラと夜の顔を見せ始めていた。

「……」

 二人は無言のまま歩いた。気まずい空気が、二人の間に流れていた。

 謙太郎には後ろめたさと、哲男が自分の知らない世界を持っていたことを責める気持ちとが、交錯していた。しかも、それがジャズとは――。

 先に口を切ったのは、哲男だった。

「すまん。隠すつもりはなかったんだが……」

 謙太郎は首を横にふった。

 ずっと避けてきた世界だった。しかし、今は……よくわからなくなっていた。ただ胸の奥に、不思議な温かい何かが灯ったような気がした。

「昔、ビッグ・アップルにいたんだ」

「ビッグ・アップル?」

「ニューヨークだ。ハーレムってとこさ……」

 一緒に歩いているはずの哲男が、急にいなくなったように感じて、謙太郎は横を向いた。

 哲男は海を見ていた。しかし、哲男が見ている海は、この横須賀の海ではないような気がして、思わず大声になった。

「父さん」 

「ん?」

「また、行ってもいい?」

 不安をごまかすように言った。

「……」

 哲男は何も言わなかった。いいとも、だめだとも。その黙りこくっている哲男の横顔には、深い影が浮かんでいた。

 

 

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ④

3.ドブ板通りで

 ドブ板通りは、夕暮れとともに目覚める。そして、夜が更ければふけるほど、その表情が生き生きとしてくる所だ。とはいっても、日中はそうでもない。通りも明るいし、表通りと何ら変わりがない。学校から広尾の家へ直行した。

 ドブ板通りを行くと、ビギン&ビギンはすぐに見つかった。黒い鉄製のドアに、白いペンキで店の名前が手書きで書いてあった。赤茶けたレンガの壁に、外開きの小さな窓がついていた。店頭にある両開きの展示用スタンドには、何種類かのピザやパスタの写真とその値段がドルと円で書いてある。裏側はアルコール・ドリンクだ。たぶん夜には、こっちを表にするんだろう。

 謙太郎はドアに手をかけたが、開けるのを少しためらった。もし、広尾がまだ帰っていなかったら、何て言ったらいいだろうか。窓から中をのぞいてみたが、中はうす暗くてよく見えなかった。

 しばらく店の周りをうろうろしていた。もう少し遅くなって、確実に広尾がいる時間に来なければミッションは完了しない。時間つぶしにドブ板通りを出て坂をだらだらと上っていたら、ばったりと池尻に出会った。池尻の周りには、いつもの取り巻き連中が五、六人いた。

 「キタミ」

 先に気づいたのは池尻で、謙太郎は一瞬遅れた。お互いの距離は、間に二人の通行人をはさんで十メートル程だった。

――あ。

 とっさに謙太郎は逃げた。池尻に背を向け、もと来た道を全速力で走った。

「おい、コラ、待てえ――っ」

 声が聞こえたのは、そこまでだ。両側の景色が、いくつもの色の線になって流れてゆく。謙太郎の真後ろを、乱れた足音が追いかけてくる。

――九秒フラットだな。

 焦りとはうらはらに、心の中でうそぶいた。

 海へ向かって下り坂になっている横須賀の道は、思いのほか加速がついて足元が浮き上がってくる。転んだら、ジ・エンドだ。かといって走りを緩めると、ざわめきが近づいてくる。全力疾走もそろそろ限界ってところで、小さなガソリンスタンドが目に入った。

――しめた。あそこに逃げ込もう。そうすれば何とかなるはずだ。

 近づいてみるとスタンド内に車も人影もなく、レジ前にいるのは女の子だけだった。

――だめだ。

 女の子を巻き込むわけにはいかない。ガソリンスタンドをやり過ごして、再び前を向いた。角を曲がってドブ板通りに入りと、最後の力をふりしぼってまっしぐらに突っ走った。

――さっきのB&Bに駆け込んで、すぐにドアを閉めた。ギッと短い音がした。ざらついた鉄のドアに身体を押しつけて、耳を澄ませた。

 間もなく荒々しい足音が、ドアの外を通り過ぎて行くのがわかった。一つ、二つ……五、六。みんな行った。

「はああぁ――っ」

 鉄のドアに身体を押しつけたまま、深いため息をついた。ぶわっと、全身に汗がふき出した。ランニングの時とは違う嫌な汗だ。額から流れ落ちてくる汗を手の甲でぬぐって、顔を上げた。

 照明が落としてある店内は、まだ目が暗さに慣れていないのか、それとも換気が悪いのか白く霞んで見えた。木製のテーブルとイスが、雑然とあちこちに置かれてある。テーブルの表面には、白と黒のタイルがチェック柄のように埋め込まれていた。部屋の隅には、季節外れの暖炉が燃えている……と思ったが、近づいてみたら電気照明を使ったただの演出だった。

 客はボックス席に一人とカウンターに一人いるだけで、誰も謙太郎のことなど気にもとめていなかった。

 暗さに目が慣れてくると、イスの革張りのシートの縁が擦り切れていたり、テーブルの上にはタバコの灰が散らばっているのがわかるようになった。

 店の奥に低いステージがあって、年代物のアップライト・ピアノが置いてある。そこだけ天井から、小さなスポットライトが当たっていた。

 鮮やかな富士山と鷲の刺繍が入ったスカジャンをはおった黒人の青年が、カウンター席に座ってマスターと何か親し気に話している。マスターの後ろの棚には、さまざまな銘柄の酒がズラッと並んでいた。

 広尾はいなかった。

 きっと住まいは別の所なんだろう。いつまでもここで待っていても、広尾は来ないかもしれなかった。しかもここは謙太郎にとって場違いな感じがして、すぐにでも出ていきたかった。しかし、今すぐ出るわけにはいかない。たぶんまだ池尻が、その辺をうろついているに違いなかった。

 ポロン……

 ピアノが鳴った。いつ座ったのか、マスターがピアノを弾き始めていた。

  反射的に耳を塞いだ。その塞いだ指の間から、クリアーで軽快なメロディーがもれてきた。知らない曲だったが、聴いているだけで体が揺れてきそうな陽気でノリのいいリズムだった。それでも謙太郎を、身を硬くして聴いていた。曲は同じフレーズを、何度もくり返した。

 突然、子供の頃の記憶がよみがえってきた。

 幼少時、確か五歳の頃だったと思う。謙太郎は叔母の桃子に、ピアノを教わっていた。というよりもむしろ、半強制的に弾かされていたという方が正しいかもしれない。音大出の桃子に、単純なフレーズを何度もなんども練習させられた。桃子もそうやって、ピアノを覚えてきたからだった。

 しかし、やや多動なくらい活発は謙太郎にとって、ピアノの前に長時間座らせられるのは苦痛以外のなにものでもなかった。ある日、謙太郎はピアノに鍵をかけて、隠してしまった。すると桃子は、謙太郎にではなく、祖母の京子に問いただしたのだった。

「母さん、ピアノの鍵をどこへやったの?」

「鍵って?」

「とぼけないで。母さんがピアノを憎んでいるのを、私が知らないとでも思っているの?」

 祖母の京子は、勝気な女だった。西横須賀タクシー有限会社の経営者は祖父の総一郎だが、実際にそれを動かしているのはこの京子だった。京子は従業員の皆からはオクサンと呼ばれ、家でも会社でも、誰も逆らう者などいなかった。

「でもね、姉さんを死なせたのは、ピアノじゃないのよ。音楽は、姉さんにとって、命のようなものだった……。だから、こうやって姉さんが残した謙ちゃんにも」

 桃子の言葉がとぎれ、大きく開いた目から涙がこぼれ落ちた。祖母は顔をそむけた。その肩が大きく波打っていた。それは謙太郎にとって、衝撃的な光景だった。祖母が泣くのを初めて見た。その日以来、桃子が謙太郎にピアノを強いることは無くなった。

――姉さんの子?

 この言葉の意味がわかるようになったのは、もう少し後になったからだった。桃子はおとなしくてやさしい女だった。謙太郎は、桃子を母親だと思って育った。桃子でじゅうぶんだった。けれども、やっっぱり……。

――そうだ、音楽だ。音楽が悪いんだ。

 こじつけだったかもしれない。それでもかまわなかった。謙太郎は、憎む対象が必要だった。桃子でもなく、京子でもない、何かが。謙太郎にとって、音楽とはそういうものだった。

 ところが、今聴いているピアノは違っていた。マスターは乗りというか、ほとんどアドリブで勝って気ままに弾いていた。音楽というよりも、ピアノで遊んでいる子供のようだった。

 ふと気づくと、指先でテーブルを叩いていた。テーブルには両側に引き出しがついていて、丸い取っ手があった。つまんで引っ張ったら、取っ手が取れてしまった。

「いけね」

 無理やりねじ込もうとしたら、

「何してんの?」

 上から声がした。あわてて顔を上げると、広尾が立っていた。

 

 

 

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ③

「あの青空のところに、何かとても大切な物を忘れてきてしまったって言ってるの、この詩の作者は。それは何かしら?」

 クラス担任でもある現代国語の桐生先生が言った。桐生先生は大学を出たばかりの女の先生で、『ペガサス』とかいう全国的な詩のサークルに入っているらしかった。踵が10センチもあるハイヒールをはいて、いつも校内をカツカツと歩いているから、みんなはミス・ヒール、もしくはヒール先生と呼んでいた。

「宿題だったわよね?」

 ヒール先生は、教室を見まわした。女子はみんな自信満々っていう顔をしていたが、男子はほとんどがうつむいていた。

「ええっと……」

 謙太郎も、ボールペンのペン先なんかを見つめていた。ところが、

「あ~~っ」

 教壇から、ただならない先生の悲鳴がした。

 思わず顔を上げると、先生とバッチリ目が合った。先生はちょっとつまずいただけだった。

--やば。

 すぐに下を向いたが、すでに遅かった。

「北見くん」

 頭の上から、先生の声がふってきた。

「はいっ」

 立ち上がって、きおつけの姿勢をとった。それは敬意を払ってしたのではなく、しまったという気持ちからだった。

「あのう……」

「あら、北見くん、どうかしたの? もしかして、宿題忘れ?」

「いいえっ」

 胸をはって答えた。

「いいえ、違います。忘れてなんかいません。それにふつう、空になんか忘れ物をしないと思います。だから、どっちもなしです」

 どっと教室がわいた。

「えばらないの、着席して」

 やれやれという感じで、先生が言った。

「詩だからって、何も難しく考えることなんてないのよ。詩は、心で読むものなの。そうね、この詩は、みんながもっと歳をとってからわかるものかもしれないわね」

 先生はしたり顔で言いながら、みんなの間をカツカツとヒールの音を響かせて歩いた。

 その音が、ピタッと止まった。先生は広尾のところで立ち止まって、机に広げてある大学ノートをじっと見た。広尾がノートを閉じようとすると、

「待って」

 手で制して、広尾に立つように命じた。のろのろと広尾が立ち上がった。

「それを読んでみて」

 みんなはしん……となった。きっとイタズラ書きか、先生の悪口でも書いていたんだろう。あちこちから笑声がもれた。謙太郎の時とは、明らかに違う種類の笑いだった。

 広尾は六月末という半端な時期に、北海道から越してきた。まだ友達と呼べるようなやつも出来ていないようだった。広尾がぼそぼそと、小さな声で読み始めた。

「もっとゆっくり、大きな声で」

 広尾の言葉がとぎれ、みんなも静かになった。ひょうきん者の吉沢がにやにやしながら、次に広尾がひと言でも言葉を発したらすぐに笑ってやろうと待ちかまえていた。今度はさっきよりも、ゆっくりと大きな声になった。

 それは詩だった。笑うきっかけをなくした吉沢が、ぽかんと口を開けたままになっている。

「とてもいい詩ね」

 先生が言った。

「どうせ、自分で作ったんじゃないだろ」

 吉沢が口を出した。

 次の瞬間、広尾がダ――ッと吉沢の席まですっ飛んで行って殴りかかった。吉沢はすんでのところで避けて、かすっただけだった。先生やみんなにはわからなかったかもしれないが、謙太郎の所からはそれがはっきりと見えた。吉沢はほっとした顔をした後、すぐに頭を抱え込んでうめき声をあげた。

「うわ~~~、イテェよお~~っ」

 すぐに二人は、引き離された。

「広尾くん、後ろに立っていなさい」

 先生が命令した。吉沢が、にやっとした。

「ウソ、ついてます。当たっていません」

 謙太郎が言った。

 「いいえ、北見くん。それからみんなも聞いてちょうだい。どんな理由があっても、暴力で解決しようとしてはいけないのよ。わたしの教室で、暴力は絶対許さないわ」

 毅然とした態度で、先生が言った。広尾はものすごい形相で、先生をにらんだ。身体が小刻みに震えて足が揺れていた。が、広尾はくるっと先生に背を向けると、教室を出てそのままどこかへいなくなってしまった。

「冗談だよ、ジョーダン」

 吉沢が情けない顔で、ごまかすように言った。誰も笑わなかった。

 放課後になっても、広尾は戻らなかった。机の横にポツンと置き去りにされたカバンが、なんだか侘しかった。

「ゲルニね」

 ヒール先生がやってきて言った。先生が出た大学では、出席だけとっていなくなってしまう生徒をそう呼ぶのだそうだ。

「北見くん、ヒマ?」

 いきなり先生が言った。

「いいえ、ヒマじゃないですよ。これから全力疾走しなくちゃなんないし……」

「あら、陸上に入ったの?」

「部活はやってませんよ」

「じゃあ、予備校?」

「まさか」

「じゃあ、ヒマでしょ。悪いんだけど、それ、持っていってくれないかな? 先生、ちょっと用事があるのよ」

 先生は謙太郎を、勝手にヒマと決めつけて言った。

「それに、あんまり大ごとにしたくないの。まずは、友達が行くのがいいでしょ」

「えっ、おれって、広尾の友達ってことになってんの?」

「そうやってカバン見つめてるんだから、じゅうぶん友達よ」

 これ以上言うと、今度は先生と『友情』について、長~~い話になりそうだった。それよりカバンを届けてしまったほうが楽だ。

「それで、広尾の家ってどこですか?」

「本町のドブ板通りよ」

 横須賀のドブ板通りっていえば、Xジャパンのヒデがいたことで有名な所だ。米軍基地に近く、GI(米軍兵士)相手のバーやキャバレーが軒を連ねている所でもある。

「ビギン&ビギンっていうジャズのお店らしいわ」

ーージャズの店!

 嫌な予感がした。それに音楽にかかわる所には、近づきたくなかった。しかしそれよりも、ドブ板通りをビビっていると思われるのは、男として最も避けたいことだった。

「先生、それってお願いですか? それとも命令ですか?」

 先生は軽く首をかしげてから、言った。

「ミッションよ」

 

 

横須賀ドブ板ストリート・ストーリー ②

2.ミス・ヒールのクラスで

 米ヶ浜通りバイクひったくり事件4--は、人づてに伝わるうちに、謙太郎がバイクを追いかけて犯人を捕まえたということになっていった。そのため学校では、ちょっとしたヒーローになった。夏休み前の今頃になって、陸上をはじめとしてさまざまな運動部が勧誘にやってくるようになった。しかし、真相を知っている大人の反応は、あまり芳しくなかった。

「キタミィ、バイクと戦って勝てると思うか?」

「えーっ、そんなの無理ですよ」

「じゃあ、戦うな。今回は運が味方してくれたから良かったようなものの、ひょっとすれば命を失くしてたんだぞ」

 最も言われたくない体育教師に言われた。

「ちぇ」

ーーおれだって、それほどバカじゃない。いよいよって時には、よけるつもりだったんだ。

 そう言おうと思ったが、やめた。そういう反論は、この手の大人には通用しない。むしろ火に油を注ぐような結果になってしまうのがオチだ。

 くさって学校から帰ると、家の前に若い女の人が立っていた。桜色のブラウスに、紺の短いスカートをはいていた。スカートからのびる足は、すらっとして格好が良かった。

 女の人は謙太郎に気づくと、ていねいにおじぎをした。一瞬、誰だったかなぁと思ったが、

「杉浦美由です。この間は、どうもありがとうございました」

「あ」

 ひったくり事件の被害者だった。あの時は色いろあったから、女性の顔をよく見ていなかった。

「ども」

 ふいをつかれて、ぎくしゃくと頭を下げた。もしかして声もうわずっていたかもしれない。

 くすっと、杉浦さんが笑った。笑うと小さなエクボができた。どこか素朴な感じがする。その笑顔を見ただけで、周りの大人に説教されたことは、もういいやと思った。

 ところが、事はそれだけでは済まなかった。その三日後、謙太郎は池尻ってやつに呼び出された。校内で会うことはめったになかったが、ある意味有名だった。

 池尻はパラダイスっていうロック・バンドのリーダーをやっていて、金色に染めた髪をイグアナのようにつっ立てているちょっとヤバい感じのやつだ。謙太郎とは同じ学年だが、年齢からすればどこかで1~2年足踏みしているはずだ。どうせ何か悪さでもして、落とされたんだろう。

 高校に入ってすぐに、偶然謙太郎はパラダイスが演奏しているのを聴いたことがあった。横須賀中央駅前にあるジャズ楽器のモニュメントの前で、路上ライブをやっていた。女の子がたくさん集まって、キャアキャア騒いでいた。

 通りすがりに聴いただけだったが、演奏はそう悪くなかった。池尻が叩くドラムのリズム感も良かったし、ギターもまずまずの出来だった。しかし、肝心のヴォーカルが、すべてをぶち壊していた。カツゼツがすごく悪いせいで、訳の分からないことを、ただうるさくわめいているだけにしか聞こえて来なかった。

 結局、呼び出しには応じず、そのまま家に帰ってしまった。その後、池尻から三回呼び出された。三回ともすっぽかした。すると謙太郎と同じクラスで、バンドのベースを担当している横山ってやつが謙太郎の耳元でささやいた。

「池尻さんが『主なるイエス』って曲を練習しておくんだな、だってさ」

「へえ、やつはクリスチャンなの?」

「いいや」

 横山は神妙な顔をして、ゆっくりと首を横にふった。

「美由さんだよ」

「?」

「杉村美由さん、知ってんだろ?」

「まあ……」

「前に、彼女にちょっかいを出したアホがいてさ、そいつ、ボコボコにされちゃったんだ。ひどいもんだったよ。そん時おれら、『主なるイエス』ってのを演奏したんだ」

「……彼女、池尻の?」

 横山は応えず、ふうーーっと深いため息をついた。

「あやまっちゃえばいいんじゃね? ごめんなさい、何でもやらせてもらいますってさ。そうすれば池尻さんだって、そう悪くはしないっしょ」

 事もなげに横山が言った。

「ふざけるな」

 彼女に特別な感情なんか持っていない。それになにより、自分に落ち度がないのにあやまる気など無かった。

「あれ、いいのかなあ。うまくいけば、ヴォーカルやらしてもらえるかもしれないぜ。バンドは女にもてるぞ、な、いい話だろう?」

 どう考えたって、それはありえない話だ。もしかして罠か、それともただのアホなのか? 謙太郎は、横山の真意をはかりかねた。

 「……」

「ロックが嫌いなの?」

 そう聞かれて、胸の奥が疼いた。

「いや」

ーーそうじゃない。ロックがどうとか、Jポップがどうとか、そうい話では無かった。音楽そのものがダメだった。

 相変わらずへらへらと薄ら笑いを浮かべている横山に、

「おまえとは違うよ」

 冷ややかに言って、背を向けた。

 それっきり呼び出されることは無くなった。

 ところが今度は、池尻の仲間に待ち伏せされるようになった。それで学校が終わるとすぐに、池尻らをさけて全力疾走で帰らなければならなくなった。いつまでもそれで済むわけがないのはわかっているが、今は他にどうするすべも思いつかなかった。それに体育は、特に走りは、謙太郎が最も得意とするものだった。

 そして、最も苦手とするのは、ミス・ヒールの……