月夜の晩に、七人の子供が小さい村から本郷へお祭りを見にゆきました。
その時、文六ちゃんというやせっぽちで色の白い子供が下駄を買いました。
すると腰の曲がったおばあさんが、
「やれやれ、晩げに新しい下駄をおろすと、狐がつくというだに」と言うのです。
それを聞いてびっくりしましたが、下駄屋のおばさんがマッチをするマネをして、おまじないをしてくれました。
「さあ、これでよし。これでもう、狐も狸もつきやしん」
そこで子供達は下駄屋さんを出てお祭りに行ったのですが……
狐 /新美南吉・作/長野ヒデ子・絵/偕成社
子供達も「そんなの迷信だ」といって、お祭りを楽しみます。
ところが、やがて帰るころになると、晩げに新しい下駄をおろすものは狐につかれるといったあのお婆さんのことを、子供達は思い出すのでした。
帰りの道を歩いていると、誰もが不安になってしました。そうして、ぐるりを低い桃ノ木で取り囲まれた池のそばへ道がきたとき、誰かが「コン」と咳をしました。
文六ちゃんがコンと咳をした!
それなら、この咳はとくべつの意味があるのではないかと子供達は考えました。よく考えてみるとそれは咳ではなかったようでした、狐の鳴き声のようでした。
子供達はそんなふうに考えて、怖くなってしまいました。いつもは分かれ道でも、文六ちゃんの家の門まで送っていくのに、誰も送ってゆきませんでした。四級も年上でいつも親切だった義則君もそうでした。
それで文六ちゃんはなさけないと思うのと同時に、もしかしたら自分は本当に狐にとりつかれているかもしれないと不安になったりもしました。
家に帰った文六ちゃんは、もし狐になったらお母さんは自分を嫌いになってしまうだろうかと心配になって、お母さんにたずねます。
「もし、僕が、ほんとに狐になっちゃったらどうする?」
するとお母さんは、笑いながら、
「父ちゃんと母ちゃんは相談してね、かわいい文六が、狐になってしまったから、わたしたちもこの世に何のたのしみもなくなってしまったで、人間をやめて、狐になることにきめますよ」
「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」
「そう、二人で、明日の晩げに下駄屋さんから新しい下駄を買って来て、いっしょに狐になるね。そうして、文六ちゃんの狐をつれて鴉根のほうへゆきましょう」
と答えます。
短い話の中に、子供達が迷信に惑わされて不安や恐怖の思いから、幼い友達を冷たくしてしまう気持ちが、とても丁寧によく書かれています。
それに比べて、お母さんと文六との親子の情愛も、とても温かく語られています。
しかし、ここからが新美南吉氏の物語の真骨頂です。
文六ちゃんは、さらに続けます。
お父さんもお母さんもみんな狐になって森に行っても、猟師が撃ちに来たらどうしようと聞きます。お母さんは、隠れたり逃げたりしましょうと言います。
すると文六ちゃんは、逃げても僕は子供で遅れてしまう。犬が来たらどうしようと問います。するとお母さんは、こう言うのです。
「そうしたら、母ちゃんは、びっこをひいていきましょう」
「どうして?」
「犬は母ちゃんに噛みつくでしょう、そのうちに猟師が来て、母ちゃんをしばってゆくでしょう。その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ」
「いやだったら、いやだったら、いやだったら!」
文六はわめきたてながら、お母さんの胸にしがみつきました。涙がどっと流れて来ました。
獣に襲われた鳥が、まだ飛べないヒナを守りために飛べないふりをして獣をひきつけたりします。
また鯨の群れがシャチに襲われたとき、オスの鯨が囮になってシャチを群れから引き離したりします。鯨のオスはシャチの群れに食われながら、海面を飛びはねて遠ざかっていくというのです。
新美南吉氏は、こうした人間も動物も同じという根源の情愛に立ったところから、物語を書いています。ですから、誰の胸にも深く響いてくるのでしょうね。
作・新美南吉氏
1913年愛知県に生まれる。東京外国語学校英語部文科卒業。
中学時代より文学に興味を持ち、童話・童謡・詩・小説などを書き続ける。
1943年没。その作品は民芸的な美しさと親しみを深さを感じさせ、今も多くの人に愛されている。
主な作品に「ごんぎつね」「手ぶくろを買いに」「おじいさんのランプ」などがあり、全業績は『校定・新美南吉全集』(全12巻・大日本図書)に網羅されている。
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