子どもの頃、ご近所に「お茶やさん」という家がありました。
お茶やさんといってもお店ではなくて、お茶畑と煎茶の製造工場があって、今頃の時期になると私たちご近所にもわけてくれました。もちろん代金を払って買うのですが、ずいぶん安くしてもらっていたように思います。お茶の産地ではなかったんですが、なぜか一軒だけそうでした。
煎茶の工場には子供は入れてもらえないんですが、工場の周辺はとても広かったので子供の遊び場の一つで、よくかくれんぼやかけっこをしました。遊び場を提供してくれていたのは、今から思えばお茶やさんにも子供がいたせいでしょう。
茶畑というのは、人間からすれば「お茶を栽培している木」なわけですが、木からすれば立派なお茶になろうなんて思っているわけでなくて、まわりの雑木林の木や草と同じで、寒い冬から春、初夏へと、暖かな太陽の日差しがうれしくてすくすくと育っているんだろうなと思います。
だけどお茶の木なわけですから、新芽が出たところを摘み取られてしまうわけです。
それでもやっぱり、また伸びてゆきます。
こう毎年毎年、新芽が出ては摘み取られを繰り返していると、人間だったら、どうせ摘み取られちゃうんだから、もう芽をだすのはやめよう、ってなるわけですが、お茶の木は摘み取られても、摘み取られても、どんどん出てくるわけです。
こういうのを見ていると、まるで自由を求める民衆のようにも見えてきてしまいます。弾圧を受けたりしながらも諦めないような、あるいは失敗しても失敗しても実験を繰り返す科学者のような。
お茶の木ってなんて素直でいじらしいんでしょうか。
摘まれても焦がれのびゆく新茶の芽
つまれてもこがれのびゆくしんちゃのめ
新茶〖夏の季語・生活〗走り茶・古茶・新茶買う・新着くむ
その年の新芽で製した茶。走り茶ともいい、最も早い芽で作ったものを一番茶と呼びます。香気と味のよさで珍重されます。
新茶が出回ると、前年の茶は古茶となります。
句の「焦がれ」っていうのは、もちろん太陽とか夢とかへの恋焦がれるようなパッション(大谷翔平選手がいうところの)なんですが、摘み取ったお茶の新芽から煎茶になる工程も、ちょっと焦がれに近いような気がします。
「のびゆく」は、成長する「伸びる」という意味と、生き延びるの「延びる」という意味のどちらも含んでいます。
「植物のいいところはね、光にむかってのびていくところよ」
「光?」
「そう、太陽の光。先生の部屋にある木はね、みんな太陽の光がさしてくる方向にむかって、葉っぱをひろげているの」
「ふうん……」
「科学的に考えれば、あたりまえのことなんでしょうけど、先生は感動しちゃう。
だってずうっと雨の降っている梅雨のときなんか、太陽の光よりも部屋の蛍光灯のほうがずっと明るいはずなのに、植物たちはごまかされないんだもの」
― 略 ー
「じゃあきっと植物はみんな、太陽のことが好きなのよ。考えなくても、自分の好きなもののことぐらいわかるじゃない」
本気でそう思ったわけじゃないけど、口にだしていうと、そのとおりのような気がした。
植物は太陽が大好きで、その大好きな太陽にむかってスクスクのびていく。
「そうだといいな……」ぼそっとつぶやくと、
「そうだといいわね」
ー リズム / 森絵都 / 講談社より ー
これは森絵都さんが第31回講談社児童文学新人賞を受賞した「リズム」という本に書いてあった言葉です。リズムからは逸れていますが、この部分も素敵だなと思い心に残ったのでした。
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